横浜美術館の「Meet the Collection -アートと人と、美術館」

 横浜美術館の「Meet the Collection -アートと人と、美術館」がすごくぜいたく。
 開館30周年記念という、ただのコレクション展かと思いきや、美術館のキュレーターさんに加え、束芋(たばいも)、淺井裕介(あさい・ゆうすけ)、今津景(いまづ・けい)、菅木志雄(すが・きしお)の4名が、それぞれ、美術館の一室と横浜美術館の所蔵品を使って、インスタレーションを行っている。
 横浜美術館も金曜と土曜は夜の8時まで開館しているし、常設展は撮影可なので、今回は全品撮影可なのだ。

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今津景のインスタレーション

 で、会場はこんな感じ。吉田健一ミロのビーナスの部屋で1日中座っていたという、戦前のルーブル美術館ってこんな感じだったんじゃないだろうかと思うほど。上野の混雑がバカみたいですよ。
 特に、淺井裕介と菅木志雄のインスタレーションがすごくよかった。

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淺井裕介≪いのちの木≫
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菅木志雄≪環空立≫

 ほかには、有名な写真もありました。

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ロバート・キャパ≪Dデイ オハマビーチ ノルマンディー海岸 1944年 6月6日≫

 この写真、下の方がぶつぶつってなってるでしょ。ノルマンディー上陸作戦に、命がけで同行したロバートキャパの写真なんですけど、現像の人がミスしてほとんどのフィルムをダメにしちゃった。生き残ったのはわずかだったみたいですね。

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アンリ・カルティエ・ブレッソンセビリア スペイン≫

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沢田教一≪泥まみれの死

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ロバート・キャパデンマークの学生にロシア革命について講演するレオン・トロツキーコペンハーゲン

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イサム・ノグチ≪真夜中の太陽≫

2019年6月23日まで。

『山下達郎シアターライブ』『souvenir the movie Mariya Takeuchi theater live』2週間限定再上映

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souvenir the movie Mariya Takeuchi theater live

tatsuro.co.jp

 桜木町の横浜ブルク13っていう映画館で山下達郎のシアターライブを観てきた。
 山下達郎というひとは、音楽オタクだと思うんです。それで、いま、映画館の音響環境がすごくよくなってるって気が付いたんですね。で、気が付くと、やらずにいられないんだと思う。
 1984年から2012年までの、各地のライブ映像を集めて編集している。二週間限定の再上映でオリジナルの公開時期は2012年。ちなみに、去年公開された竹内まりやの『souvenir the movie』もおなじく再上映中。これは去年観ました。

 音楽の映画はけっこう観る方。『ボヘミアンラプソディー』『アリー/スター誕生』『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』なんかのフィクションもそうだけど、今回のようなライブを撮ったものもよく観る。

 今回の山下達郎のパフォーマンスだと、私の頭の中のアーカイヴの中から、自然に連想されてくるのは、『サイドマン』。

とか『ラスト・ワルツ』。は、竹内まりやザ・バンドのファンで、ロビー・ロバートソンと親交があるからだが、『ラスト・ワルツ』にもマディ・ウォーターズが出てた。

 マディ・ウォーターズとかハウリン・ウルフにくらべると(って、このへんで突っ込んでもらっていいところ}、専門的なことはわからないけど、山下達郎はポップで軽く感じる。
 どちらかというと、ブラック・コンテンポラリーとかフュージョンといった、ジャズやブルースから展開していった音楽の、日本オリジナルなのかもしれない。
 なんか、最近、竹内まりやの『プラスティック・ラブ』が、突然、世界で人気になっているというニュースを目にする。ネットニュースってちょっと斜に構えて見ざるえないから、半信半疑なところもあるし、それに、もし本当として「で?」っていうところもあるんだが、ともかく、この山下達郎のシアターライブでも、竹内まりやの『souvenir the movie』でも「プラスティック・ラブ」がセットリストに入っていた。

 でも、わたしは、『souvenir the movie』でいちばんひきこまれたのは「カムフラージュ」だったと思う。
 
 80年代、突発的に日本の音楽が世界的に注目されたことがあった。でも、それはカナダのザ・バンドスウェーデンのアバやオーストラリアのメン・アット・ワーク・みたいなことなんである。ビートルズが世界を席巻したこととは意味が違う。
 ビートルズ世界の音楽をすべて拭い去った。そのあとのシステムからビートルズにさかのぼることはできない。ビートルズ自身が、たった8年でビートルズを去ったというのに、まだ「ビートルズのように」世界を席巻する幻想を抱くわけにはいかない。
 60年代の若者が世界規模で連帯できたのは、戦争の反動だったについて、いまさら誰かが反論するだろうか。結局、次のビートルズは生まれなかったし、これからも生まれない。世界があの時代のようにひとつになっていない。そのかわり、いまは、ばらばらの個人がネットでつながっている。それが悪いとは思わない。むしろ、いいんじゃないだろうか。
 そういう背景で、とつぜん、30年前の竹内まりやの曲が海を越えて流行ったりする。これは、広い意味ではロングテール効果というべきかもしれない。まるで、旅の途中に立ち寄った町のように、良いものに突然出会う。遠い伝説や神格化ではなく、「いいね」がほしい、そんな時代。

イラン?、それとも中国?、トランプが叩くのは

 アグネス・ラムのグラビアが懐かしくて週刊大衆を買ったら、ほぼエロ雑誌であるにもかかわらず、こんなところにも佐藤優が何か書いていて驚いた。

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アグネス・ラム by 池谷朗


 いつ書いてるのかと思わせる猛烈な執筆量だが、ただ、さすがに週刊大衆となると、すこし、ネタが古い。
 トランプ政権が、イラン原油禁輸で適用除外を撤廃したという今月一日のニュース

www.nikkei.com

と、安倍首相が前提条件を付けずに日朝首脳会談の実現を目指す方向に転換したという5月6日のニュース

www.nikkei.com

の関係について書いている。

 トランプ政権はとにかく発足当初からイランを目の仇にしている感があるが、北朝鮮とはくっついたり離れたり。いかに、アメリカの軍事力が強大とはいえ、アジアと中東の二方面で戦争状態を保てないので、イランに対して、こんな高圧的な態度に出ている以上、北朝鮮に対しては融和的な態度をとらざるえない。したがって、安倍政権がこの機を狙って北朝鮮に接近するのは正しいカードだろうと書いている。

 トランプ政権のイランに対する制裁については、「目的が不明確」だと、池上彰週刊文春に書いていた。素人目には、目的が不明確というより、はっきりと戦争が目的だと見えてしまう。

www.newsweekjapan.jp

 このジョン・ボルトン国家安全保障担当補佐官に加えて、シャナハン国防長官代行が正式に国防長官に就任すると(トランプ大統領はそうすると発表している)軍事産業出身の人が国防長官にはつかないという、アメリカ政府の不文律が崩れることになると、池上彰は書いている。だとすれば、トランプ大統領は、この戦争がペイすると考えているのかもしれない。

 五月十二日にはホルムズ海峡を航行中のタンカーが何者かに攻撃を受けており、もはや、事実上、戦争の一歩手前まできている。

www.newsweekjapan.jp


 この時点までは、アメリカ、イラン、北朝鮮の緊張関係は、たしかに、佐藤優の分析通りだったと思うのだが、このあと、さらに華為の事実上の禁輸処置という事態が出来した。これが五月十五日。

www.itmedia.co.jp
jp.reuters.com
www.businessinsider.jp

 たしかに、華為は民間企業であって、中国政府を相手に事を構えたことにはならないのかもしれないが、

www.bloomberg.co.jp

中国企業アメリカではごみ箱すら買えないという発言がされるほど、米中関係の緊張は極度に高まっているといえるのではないか。

 だとしたら、トランプ政権下のアメリカは、中国とイランの二方面で、一触即発の事態にたちいたっていると見える。これは戦略的にばかげていると見える。

 中国と一触即発の緊張状態にありつつ、北朝鮮と宥和する、なんてことが可能だとは思えない。アメリカにほとんど同時に宣戦布告されたに近いイランと中国は、おそらく緊密に連絡を取ろうとするだろうし、北朝鮮はそのチャンネルとしてうってつけだろうと思える。

 したがって、月初とは状況が一変してしまい、日朝首脳会談にあまり意味がなくなってしまった。
 そこで、安倍首相は、6月なかばにイランを訪問する予定を立てたようだ。

www.nikkei.com


 トランプ政権のイランに対する態度はたしかに不可解である。とにかく「戦争が目的」と考えないとつじつまが合わないが、本気なのかどうか、それがペイするとトランプ大統領が考えているのかどうかが読みにくい。

 イランとキューバのふたつは、オバマ政権の数少ない実績なので、これはこのまま受け継いだ方がよいのではないかと思う。これが、オバマはイランの非核化に道筋をつけたのに、トランプはそれをぶち壊したとなれば、来年11月の大統領選挙に、むしろ悪影響が出ると思えるが、その辺の影響をトランプ大統領がどう考えているかが読みにくい。

 ただ、6月なかばの安倍首相のイラン訪問が実現するとなれば、それは、5月25日に来日するトランプ大統領も了承したということになるだろうから、だとすれば、アメリカは当面の敵を、イランではなく中国に絞ったと考えるべきなのかもしれない。
 池上彰のいうように、トランプ政権のイラン制裁は出口がみえない。とはいえ、一度振り上げたこぶしをむなしくおろすわけにもいかないのだろうから、出口でなくとも、逃げ場くらいは確保しなければならないはず。今の状況ではその逃げ場が中国になりかねず、中国とイランが組むのを避けたいのだとすれば、ましてや、イランと北朝鮮が核開発で共闘するのをさけたいとすれば、今度の6月の安倍首相のイラン訪問にその逃げ場が提示されるはずだと思う。
 もし、安倍首相のイラン訪問が実現すれば、それは、トランプ政権が中国を集中的にたたくと決めたということなのかもしれない。

ルート・ブリュック展

 ことしは、日本とフィンランドとの外交関係樹立100周年だそうで、東京ステーションギャラリーでは、前回のアルヴァ・アアルトにつづいて、ルート・ブリュックの展覧会が開かれている。

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ルート・ブリュック展 東京ステーションギャラリー

rutbryk.jp

 森アーツセンターギャラリーで開かれているムーミン展も一連のの行事だそうである。2015年、トーベ・ヤンソンの生誕100年記念展は観た。ムーミンのうみの親のトーベ・ヤンソンが女性だとこどものころは知らなかったので、そうと知った時は意外な感じがした。レズだと知った時はもうじゅうぶんに大人だったので、何とも思わなかったが。
 すこしまえにヘレン・シャルフベックっていう、これもフィンランドの魅力的な画家の展覧会を観たけど、「モダン・ウーマン―フィンランド美術を彩った女性芸術家たち」という展覧会も、6月18日から国立西洋美術館で開かれる。

www.japanfinland100.jp


 このルート・ブリュックも女性だそうです。
女性の陶芸家というと、ルーシー・リーを思い出すけど、ルート・ブリュックは、今回の展覧会を見た限りでは、陶芸家というより、むしろ絵描きさんで、絵の具の代わりに粘土をつかっているという感じ。

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≪結婚式≫ルート・ブリュック

 このころ、1940年ころは、「スグラフィート」という掻き落としの技法で描いているそう。

 その10年くらいあとには

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こんな具合に、線が凸になる。「スリップ・キャスティング」といって、石膏に絵を彫り、それを型として、そこに泥漿を流し込む。そうやってできた線の土手のなかに釉薬をながしこむ。

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この独特のグランジ感は、表面をひっかいた上に酸化金属をすりこみ、それからふき取ることで出しているそうだ。

 晩年、というか、後年には、抽象的な表現に移行する。それも悪くはないけど、でも、タイルってもともと抽象だから、タイルを使って抽象表現をしようとすれば、もっと、モダンに工業化されてもよさそうなのに、どこか作家性を感じさせる。

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 これは、ルート・ブリュックの娘さんで、現代芸術家のマーリア・ヴィルカラが、ルート・ブリュックの残したタイルピースを使って作った≪心のモザイク≫というインスタレーションですけど。

 余談だけど、この展覧会も撮影可だったんだけど、ただ、初期のころのが展示してあるワンフロアのみで、後年の抽象的なのは撮れなかった。中期のころのちょうちょのなんかは素敵だったんだが、ちょっと残念。
 なんか、シャッター音がうるさいという苦情があったらしくワンフロアのみになったとか言っていた。
 確かに、うるさいと思わぬでもなかった。わたしは、ストロボはもちろん(絵を撮るのにストロボたいても反射するだけですぜ)、シャッター音もAF補助光も切ってある。
 スマホで撮影することはめったにないが、カメラを忘れた時なんかに使うので、これは、iPhoneだけなのかどうかしらないが、「ヤメラ」というアプリを入れてある。シャッター音はしないし、露出補正くらいはできる。

学歴と教養

 丸山穂高という衆議院議員が、北方領土の元島民のビザなし渡航についていって、元島民の代表に「団長は戦争でこの島を取り返すことは賛成ですか、反対ですか」「戦争しないとどうしようもなくないですか」といった質問をして、所属していた維新の会を除名されたそうだ。
 この話を聞いて思い出したのは、少し前に、週刊現代佐藤優が書いている、書評のコラムで、竹中平蔵の著書をとりあげて、日本の官僚の学歴の低さを問題視していたことである。
 鈴木宗男の懐刀と目されている佐藤優小泉純一郎のブレーンだった竹中平蔵の著書を取り上げるのがまず意外だったが、取り上げられている問題はむしろシンプルで、著書全体の内容というより、竹中平蔵ダボス会議で見聞した日本の官僚のダメさ加減をとりあげているだけだ。
 世界を代表する政治家や実業家が一堂に会して討議するダボス会議で、日本の官僚はほぼ「壁の花」と化しているそうなのだ。
 佐藤優がいうには、日本の官僚は世界基準で観ると「低学歴」だそうだ。というのは、東大卒ですぐに官界にはいらないと後の出世レースにのり遅れるので、学部卒以上の学歴を身につけないのが慣例だからだそうだ。
 東大だろうがせいぜい学部卒では「低学歴」といわざるえないし、問題は、学歴はともかく、ダボス会議の場で議論についていけない程度の教養しか、現に、彼らが身につけていないということで、この人たちが日本のかじ取りを誤るのはむしろ当然なのかもしれない。
 ちなみに佐藤優同志社大学の神学部卒で、外務省にはいったあとイギリスに留学した。官僚としては変わった学歴である。もともとチェコキリスト教に興味があって、それを研究するつもりであったらしい。
 鈴木宗男が政治家として復活するに際して、佐藤優の力が大きかったことはまちがいない。能力のあるブレーンには学歴ではなく教養が必要であるといえる例だと思う。
 問題の丸山穂高議員も東大卒、それに、まえに「ちがうだろー」で話題になった女性議員も東大卒なんだが、このひとたちの教養の低さは一目瞭然なんだが、そうなると、日本の官僚や政治家は、教養も低い、学歴も低い、ということになる。
 学歴が低いから教養が低いのはむしろ当然なんだが、そうなると、東大を頂点とする日本の教育のシステムは、国際的に通用しない人材を量産しているだけということになる。
 考えてみれば、中曽根首相くらいまでは、戦前の教育を受けていた人たちで、戦後の教育システムはエリートを育てるのに失敗したと言えるのだろうと思う。
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クリムト、エゴン・シーレ、ウィーンモダン

 展覧会の混雑には予測のつかないものがある。
 国立新美術館で「ウィーン・モダン」を観た後、東京都美術館で「クリムト展」を観るつもりにしていた。「世紀末のウィーン」の一日にするつもりだった。
 ところが、国立新美術館の方は行列もなく、けっこうゆったり観られたのに、東京都美術館のほうは、チケットを買うのにも行列ができてる。もっとも、午後三時だったから、たしかに、混雑しやすい時間帯ではあったにしても、これは、日を改めたほうがよいとおもわざるえなかった。
 東京都美術館は、金曜日だけ夜8時まで開いてくれている。だけど、金曜日は働いているからね。たぶん、23区でお昼のお勤めをしている人にはちょうどよいのだろう。都の美術館だから、それはそれで正しい。
 国立新美術館のほうは、ウィーンの世紀末とモダニズムの連続性に注目していた。ウィーン・ミュージアムの所蔵品が中心。めずらしいところでは、メッテルニヒアタッシュケース(!)とか、シューベルトの眼鏡とかもあった。

 最近は、部分的には撮影可の展覧会が増えたので、カメラを常携するようになった。国立新美術館では

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≪エミーリエ・フレーゲの肖像≫グスタフ・クリムト

これだけが撮影可だった。

 ちなみに後日でかけた東京都美術館で、エミーリエ・フレーゲの17歳のころの肖像画(これもクリムトによるもの)が展示されていた。

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≪17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像≫グスタフ・クリムト

 一瞬、あのエミーリエ・フレーゲだよねと思うほどあどけないけど、面影はありますね。国立新美術館の説明では、エミーリエ・フレーゲクリムトの関係は、エミーリエ・フレーゲが手紙を全部焼いて死んだのでよくわからない、となっていたが、東京都美術館の方では、新たに発見された書簡で、すくなくとも一時期は男女の関係だったとわかった、となっていた。17歳の肖像を掲げた横にそういうことを書いてあった。

 クリムトは生涯独身であったが、すくなくとも14人の子供があったそうだ。徳川家斉の53人には劣るが、惜しみなく与うタイプだったみたい。あんまり堅苦しいこというと幸せになれないみたい。エミーリエ・フレーゲは実業家として成功した自立した女性だった。で、結局クリムトとも長くつづいた。

 ペギー・グッゲンハイムもそうだったけど、自由な方がよくないでしょうか?。すくなくとも、他人がとやかく言うことじゃないと思う。

 国立新美術館の方は、クリムトだけでなく、その前後の世代の画家たちも紹介されている。

≪ドーラ・フルニエ=ガビロン≫ハンス・マカルト

 これは、生前「画家のプリンス」と称されて、たいへん人気があったというハンス・マカルトの≪ドーラ・フルニエ=ガビロン≫なんだけど、少し角度を変えて観ると
≪ドーラ・フルニエ=ガビロン≫ハンス・マカルト

わかるでしょぅか?。顔の真ん中、右頬のあたりにアスタリスクに切り刻まれた跡がある。
 修復されているけれども、いったい、何があったんだろうと図録に当たってみても特に説明はないようです。


 エゴン・シーレオスカー・ココシュカといったのちの世代の画家たちの絵が観られるのもよいところ。

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≪ひまわり≫エゴン・シーレ

 これは、エゴン・シーレの≪ひまわり≫。ひまわりといえば、ゴッホを思い浮かべる。そうなると、たいがいの人は、ゴッホのまねごとしかできくなるんだけど、このエゴン・シーレのひまわりはみごとにオリジナルですね。
 ちなみに、東京都美術館のショップに

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≪ひまわり≫グスタフ・クリムト

クリムトの≪ひまわり≫があったので。これもさすが。ですけど、でも、エゴン・シーレの鮮烈なデビューって感じが分かる気がしました。
 
 東京都美術館クリムト展の、キービジュアルというか、ポスターにはクリムトの≪ユディト≫が使われているのですが、

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東京都美術館
 ユディトに関してはクラーナハの方がよいかなと思いました。
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 ユディトという女性は、敵に町が包囲されて絶体絶命というときに、敵将ホロフェルネスと一夜をともにして、その寝首をかいて町を救ったので、ユディトの顔にエクスタシーは違う気がする。クラーナハのように、エクスタシーはホロフェルネスの側にあると思う。

『日本のいちばん長い日』、原作とふたつの映画

日本のいちばん長い日

日本のいちばん長い日

 福田和也の『昭和天皇 合本』に続いて、半藤一利の『日本のいちばん長い日 決定版』を読んだ。
そして、その勢いで、映画『日本のいちばん長い日』の1965年の岡本喜八監督のをAmazonプライムビデオで観た。ちなみに、原田眞人監督の2015年のものは、公開時に映画館で観た。

 岡本版と原田版の最大の違いは、原田眞人監督の方では本木雅弘昭和天皇を演じているのに対して、岡本喜八監督の方では誰が演じているのか、顔も見せない。1965年で、未だに神様扱いなのはちょっとはぐらかされた気持ちになる。時代と言えばそうなんだろうけれども、かつて、かたや侍従長、かたや侍従武官として、昭和天皇に仕えていた、鈴木貫太郎阿南惟幾のふたりが、首相と陸相として終戦を手繰り寄せたその心情を描くのに、人としての昭和天皇を描かないと、やっぱりそれはドラマとして変なのである。

 たぶん、1965年版をリアルタイムで経験した人が2015年版を観ると、思い出バイアスがかかるんだと思う。私みたいに先に2015年版を観て、その後に1965年版を観ると、阿南惟幾を演じた三船敏郎役所広司鈴木貫太郎を演じた笠智衆山崎努は甲乙つけがたい。

 しかし、敢えて言うと、それでも原作本の迫力がいちばんかもしれない。阿南惟幾切腹にしても、割腹し、自ら頸動脈を切ったあと、一時間も端座したまままだ息があった、なんてことは、文字だけが伝えられる迫力かもしれない。

 そして、映画ではどちらのバージョンでも描かれていないが、ポツダム宣言の受諾を決意した昭和天皇が、最後に母である皇太后に面会を望む。「自分はいま和平を結ぼうと思って骨を折っているが、これが成功するかどうかわからない。だから、あるいは皇太后様にお目にかかれるのも、こんどが最後になるかもしれぬ。一目お会いしてお別れを申上げたい」と。

 昭和天皇マッカーサーのふたりが面会して、どんなことを話し合ったのかはわからないのだが、昭和天皇個人は、自身の末路について甘い期待を抱いていなかったということはこれからも確かだろう。昭和天皇はなんども「国体の護持には自信がある」と口にするが、その自信の裏側には覚悟があったにちがいないだろう。

 それにしても、大日本帝国陸軍っていう連中は、最後には近衛師団まで欺いてクーデターを画策するとは、天皇を人質にとって戦争を継続しようとするのだから、この最後の悪あがきひとつとっても、軍の正体は一目瞭然なのである。
 福田和也の『昭和天皇』は、昭和天皇を核に同時代のありとあらゆる国や階層に及ぶ群像劇として構想されていて、たしかにこれはこれで面白いのだけれど、『日本のいちばん長い日』のわずか24hに絞り込んだドラマは圧倒的である。でも、二・二六事件のときの鈴木貫太郎はどうだったかとか、その鈴木貫太郎の奥さんが実は、昭和天皇の乳母だった人で、子供のころの昭和天皇はどうだったかとか、その他、そういう予備知識を得た後、に『日本のいちばん長い日』を読むと、さらにあじわい深い。
 軍部は、五・一五のときも二・二六の時もそうだが、天皇個人に対する敬意は全くなく「国体」ということをいうわけだけれど、その実態は彼らのエゴにすぎない、と思わない人はどれくらいいるのか知らないが、わたしは、つい最近の天皇生前退位をめぐる議論を思い出した。
 天皇生前退位女性天皇も、天皇の歴史を振り返れば、まったく正常なことであるのに、それにどうしても反対する連中が「保守」を名乗ってるのは実に気持ちが悪い。彼らの姿は「国体」を振り回して、傍若無人にふるまっていた帝国陸軍と輪郭が重なると思うのだ。

 何年か前にバズった記事に
gendai.ismedia.jp
というのがあった。

 国家予算の280倍を戦争に費やした軍部が、何度となく国家の危機を救った高橋是清を「君側の奸」呼ばわりしてなますに切り刻む、しかも、それをマスコミがほめそやすって、どういうブラックジョークなんだろうか。亡国の輩は軍部であったことは疑いようもない。問題は、そのやり口が日本会議のやり口と重なってるのが気持ち悪いのである。
 明治憲法は「天皇神聖にして侵すべからず」として、さらに軍の統帥権天皇に置いていた。これを制定した明治の元勲たちは、明治天皇と個人的につながっていたので、これは文字通りの意味であっただろう。まさか、これがのちに、軍部の暴走のレトリックに使われるなどという卑しい想像はしたこともなかったに違いない。しかし、実際は、そういう卑しい連中が国を牛耳ることになった。明治憲法はそういう卑しい連中を利する欠陥憲法だったということである。
 靖国信者と日蓮主義者が組んで謀略をめぐらすなどということが2度と繰り返されないことを願いたい。