谷川俊太郎展

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 詩人で展覧会を開けるのは、まず、谷川俊太郎くらいのものだろう。東京国立近代美術館吉増剛造展ってのは観たし、面白かったが、よく言えば実験的、私の勉強が足りないってだけのことだが、悪く言えば難解だった。たしかに今回の谷川俊太郎展と吉増剛造展「声ノマ」と比べてどちらが刺激的だったのかと言えば、吉増剛造の方は、あえて美術館で展覧会を開くことに確信犯的であるわけだから、それは吉増剛造の方だと言えるのだけれど、たとえば、鉄腕アトムの主題歌

 空を超えて ラララ 星の彼方 

 行くぞ アトム ジェットのかぎり

 こころやさし ラララ 科学の子

 十万馬力だ 鉄腕アトム

って歌が展覧会場に流れていると、その説得力は良くも悪くも圧倒的なのである。昔、泉谷しげるがカバーしたりしていた。

 しかし、日本の詩とは何かは、けっこう難しい。とくに近代詩はそもそも翻訳からはじまったわけだから、はじめから形式が存在していない。それなのに、これは詩です、これは詩じゃなくて散文ですって分けてることがすでに何か変は変なのだ。

 たとえば、ペトラルカは、須賀敦子によると、言葉をまるでレンガのように緻密に考えて積み上げているそうなのだ。漢詩もそう。でも、日本の場合、最初からそうした形式が存在しないのに、書く側だけでなく、読む側も詩と詩じゃないものを分けていて、そして、けっこう愛唱されている詩もある。

 形式がないのに詩があるとすれば、詩は形而上的なものになるしかない。自身詩人でもある吉本隆明は、『最後の親鸞』の序であったかあとがきであったかに、それを「一編の思想詩」に喩えていたし、個人的にもそう読んだ。というのは、山折哲雄が評したとおり、内容はほぼ浄土真宗の「正統的な」教義そのものであるが、でも、それをあれほど魅力的に語った本はそうザラにないと思うからだ。

 ペトラルカの詩が翻訳不可能だとすれば、その理由は、形式にではなくて言葉にある。林檎とAppleはモノとしては同じだけれど、言葉としては違う。翻訳詩から出発したかぎり、私たちはそのことを知っている。

 「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにありき」と言うけれど、神は林檎のようには存在しないのだとしたら、神は言葉としてあるだけである。にもかかわらず、神とGODが同じだとしたら、神は存在するしかない。

 言葉があるかぎりそこにあるしかない。そんな風に詩もあるのだと思う。

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ベロニカとの記憶

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 オススメ。「ベロニカとの記憶」。

 原作は、ジュリアン・バーンズブッカー賞を受賞した『終わりの感覚』。苦くとりかえしのつかない追憶の物語で、この原作は読んだけど、こうしてみるとたしかに語られない余白の部分が映画に向いていたのかも。

 ベロニカを『さざなみ』のシャーロット・ランプリングでっていうキャスティングがまずすばらしいし、主人公のトニー・ウェブスターをジム・ブロードベントっていう、メリル・ストリープマーガレット・サッチャーを演じた映画で、サッチャーの旦那さん役をやってた、ちょっとコミカルな印象の強い役者さんがやってるっていうキャスティングも絶妙。この映画では、こころなしかちょっとシェイプアップしている気がした。最初のうちは、「あれ、あの人だよね」って思いながら見ていた。

 監督は、リテーシュ・バトラっていう「めぐり逢わせのお弁当」って映画を撮ったインド出身の人。オリジナル脚本でヒットした第二作がブッカー賞受賞作の映画化っていう、ある意味では手堅いし、クレバーって言っていいんだと思う。意地悪く言えば、「臆面もない」のだが、でも、無名の役者さんたちを使ったヒットの次に、そうそうたる名優を堂々と演出しているのは小憎らしいながらもさすが。 

 インド映画と聞くと、歌って踊って喧嘩して、ごった煮風なアトラクションを想像してしまうが、この監督の資質はこの映画みたいに繊細な機微を描くものに向いてたんでしょう。二作目にこれっていう選択が渋くてにやにやしてしまう。

 都合よく忘れている若いころの記憶をむりやり思い出さされる羽目になったら、と想像してみて、冷静でいられるひとは、よほど幸せか、あるいはサイコパスかだろうが、そういうもしかしたら誰にでもあるだろう、若気の至りのひとかけらが、もしかしたら、自分の知らないところで悲劇のタネをまいていたとしたら、その真実が永遠に「もしかしたら」に漂い続けるとしても、その苦さは、宙ぶらりんに漂い続けるしかない、という意味で、余計に、とりかえしのつかない老いの本性なのであり、「終わりの感覚」なんだろうと思う。

 謝罪するには遅すぎるし、真相が曖昧過ぎる。悔恨は嘘くさすぎる。それに、出来事の全体から見れば、主人公は端役にすぎず、ドラマチックな独白すらたぶん許されていない。物語は終わっていて、主人公たちはとっくに舞台を降りている。そんなドラマの残照を老いたわき役を主人公に据えて描いた渋好みの作品だった。

 この原作が好きだった人は裏切られないと思う。じゃ、観なくていいじゃん、みたいなこと言われると困るが、まるで原作のまま、みたいに思わせるのは、演出と編集が見事だからだ。同じテーマを映画と小説で二度味わえると思いましょう。

 シャーロット・ランプリングは「さざなみ」で高い評価を獲得したけれど、個人的には、今度のほうが「さざなみ」よりさらに良いと思う。今回の彼女が演じたベロニカは、彼女自身こそ罪の意識にさいなまれ続けている、その佇まいが見事。

 今のところ、上映館が少ないみたいだけど、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』とか好きだった人は観てみてね。

 

 

「ラサへの歩き方」

 「勝手にふるえてろ」がよかったので前後したけど、ことしの映画はじめは、シアター・イメージフォーラムで「ラサへの歩き方」のアンコール上映だった。

 チベット仏教のラサ巡礼をドキュメンタリー風に撮った映画。チベットの人たちは五体投地といって、地面に身を投げ出す礼拝をしながら巡礼をする。シャクトリムシと同じスタイルで2400kmとかを進むわけだから、1年以上かかる。でも、誰も「そんなバカなこと辞めたら」みたいなことは言わない。

 チベットのこの五体投地を見るたびに複雑な気分になる。「五体投地」という言葉は、浄土真宗門徒にとっては、『観無量寿経』の文言で、罪を悟ったイダイケが釈尊に相対する懺悔の表現なので、革の前掛けと手にサンダルの巡礼姿は何か奇異に映る。その一方で、聖地の巡礼は、チベット仏教だけでなく、キリスト教にもイスラム教にもあることなので、宗教の違いを超えてもっと根源的な何かなのかもしれないとも思う。神道でもお伊勢参りや熊野詣でといった伝統があり、こうした旅を暮らしに組み込まなければならない切実な欲求は普遍的なのかもしれない。

 撮ったのは中国人の監督。ドキュメンタリーではないので、かまわないんだけど、随所にやらせが入る。途中で出産したり、交通事故にあったり、ラサでちょっとしたボーイミーツガールがあったり。年寄りが死んで、カイラス山で鳥葬したりする。

 正直言うと、ドキュメンタリーだと思って観に行ったので、なんか、ちょっと背筋が寒いというか、グロテスクな思いが残った。

 ラサ近くの峠の野営地で、家族がスマホで話すシーンがある。そのスマホは誰のスマホなのか、充電はどうしたのか、いつから持ってたんだ、とか、反疑問的に言うまでもなく、映画のスタッフに借りてるに決まってる。ドキュメンタリーならそれはそれでいいと思う。しかし、フィクションなら撮影クルーの存在を感じさせちゃまずいんじゃないかと思うが。

 細かいことを気にしているわけじゃなく、この映画が、中国本土でも300万人を動員したっていうから、ヒットしたって触れ込みなんだと思うが、チベット侵略について国際社会から非難されている状況で、いけしゃあしゃあとこんな映画を作っている、その無神経さと、フィクションなのに平気で撮影クルーのスマホを使わせてしまう無神経さがダブって見えてしまうわけ。

 中国という国の不気味さを改めて感じてしまった。「セブン・イヤーズ・イン・チベット」に主演したブラッド・ピットは、今はどうなってるのか知らないがしばらく中国に入国できなかったはずだ。それなのに、こんな映画を中国人が作っている。なんか、ラサ巡礼がまるで「田舎の奇祭」みたいな扱いだ。

 「田舎の奇祭じゃないのか?」と返されると返答に窮するが、しかし、チベットに侵攻し、ダライ・ラマを追放し、中国語教育を強要している中国人が、こんな映画を作って観てる。なんかすっごく薄気味悪い。そして、この映画を観てる自分も居心地が悪かった。

 ラサ巡礼とか五体投地の評価は保留するが、今のチベットについて考えるなら、この映画より「ダライ・ラマ14世」を観たほうがよいだろう。その映画でダライ・ラマは「今のチベットが置かれている状況は、チベットという国にとってのカルマだ。チベットの外に出て、チベットが見えるようになった。」と語っていた。ダラムサラの学校で学んでいる子供たちがけなげで立派だった。

 インドで廃れていた仏教寺院がチベット僧たちによって復興した例もあると聞いた。中国の経済発展の陰で、だんだん世界から黙殺されていくかのチベット問題は、100年単位の長い目で見ていくしかないのかもしれない。

 現在のチベットについては渡辺一枝の『消されゆくチベット』がよいと思う。キンドルにもなっている。著者の渡辺一枝は椎名誠の奥さん。前世はチベット人だったと言うほどチベットに入れあげて、何度もチベットに赴いている。

 

消されゆくチベット (集英社新書)

消されゆくチベット (集英社新書)

 

 

 

「勝手にふるえてろ」

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 宮藤官九郎の2017年ベスト映画は「新感染」だそうだ。ほんとかよ。ただの駄洒落だと思って気にも留めなかった。

 私の場合は、1年を振り返っている間に、半年ぐらい過ぎちゃいそうなので、あんまし、ベスト10とか考えないんだけど、それでも去年に関しては、ベスト1は決まっている。アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「エンドレス・ポエトリー」だ。これはもうダントツだった。

 そんなベスト映画がらみの記事のなかで、誰かが「勝手にふるえてろ」を2017のベスト映画だと力説していた。この映画は来週、新百合ヶ丘で観るつもりにしていたが、ついその記事の熱に押されて、横浜まで出かけていった。

 松岡茉優って女優さんは、ああいうお芝居を0からよく作れると感心する。もちろん、監督・脚本の大九明子の仕事も大したもんだけれど、松岡茉優イチロー級のファインプレー連発だったと思う。

 公開からかなり経っていると思うんだけど、満席に近かった。女子が多いんだけど、劇場が明るくなると「すっごいわかる」とか「全然わかんないんだけど」みたいな声が。だけど、それはそういう声を上げさせてる時点で映画の勝ちだよね。普通の映画は大体みんな黙って立ち上がって、しゃべり始めるのは通路に出たあたりですからね。

 わきを固めてる人たちもよい。いわゆるキャラが立つってやつでしょうか。「淵に立つ」の古館寛治とか、片桐はいりとか、「桐島、部活やめるってよ」にも出てた前野朋哉とか。

 松岡茉優というエンジンがモンスター級なので一気に駆け抜けたけど、ただ、男としては、そこそうなの?って思う部分もあった。個人的には、北村拓海が演じた「イチ」に感情移入してしまってどうにも割り切れない。男としては「イチ」の方がリアルで「ニ」がファンタジーに見えちゃうわけ。あんな奴いねぇよって。でも、そんなこと考えてる時点でもう映画の術中にはまってるな、これは。

 でも、わたしが「イチ」に感情移入してしまったのは、シナリオとしては「イチ」の退場はちょっと強引だからだな。テレビシリーズなら「イチ」と「ニ」と主人公の三角関係で最後まで引っ張るでしょう。映画だと尺の関係でむずかしいのかも。

 それと、欠点をあえていえば、「イチ」の退場前後でストーリーが割れてる。なので、松岡茉優の演じる主人公「良香」のキャラクターについては「すっごいわかる」のだけれど、ストーリーの展開にかんしては「全然わかんないんですけど」ってなるわけである。それは、妄想の中の「イチ」も現実の「イチ」もきれいに処理されてないからだろうと思う。テレビシリーズなら、この後もういちど「イチ」が登場するはずである。

 今って時代は、セックスは簡単にできるのに、恋愛は難事業で、結婚となるとほとんど無謀っていう時代である。それは、バブル崩壊で終身雇用が破たんしているのに、それに代わる新しい人生プランを社会がまだ持てないためだろうと思うが、それはともかく、良香は、昭和の古き良き恋愛を「イチ」に捧げているのにたいして、「ニ」には今っぽいフツーの恋愛を求めている。なのに、性格的には「ニ」は昭和のテレビに出てきそうないい奴で、良香が「イチ」に求めているような昭和っぽい恋愛を良香に求めてくる。一方で、現実の「イチ」は、今っぽい分裂を生きているらしい。「イチ」は、主人公と話していると「自分と話しているみたい」と告白する。現実の「イチ」は実は良香に似てたのである。

 その行き違いが、後半部分に生かされなかったのが残念な気がする。テレビならもっと引っ張るよねって言いたいわけ。良香が、現実の「イチ」に再会できるのも、「ニ」が自分に使った手をまねたからなので、このパターンはもう2,3回繰り返した方が面白さが増す。

 それと、現実の「イチ」がほんとは「王子」どころか、妄想のなかで「自分はいじめられていた」と思い込んでいるのも面白い。彼の妄想の中では、「良香だけが自分をいじめてなかった」ことになってる。この「イチ」と良香の妄想のすれ違いももっと生かせると思う。

 主役もわき役もキャラがいいから半年後くらいにテレビ化したら大ヒット間違いなしだと思うな。

トーハクに初詣

 これは先週の話になるのだけれど、上野の東京国立博物館に出かけた。「トーハクに初詣」みたいなキャッチコピーにはもう何年も前からおなじみだったけど、実際に出かけたのは初めてだった。

 というのは、実は(これは一生治らないと思うが)、渋谷に観に行くつもりにしていた映画の時間を1時間勘違いしていて急遽予定を変更した。

 というわけで、ルーズな行程になったためもあり、トーハクに行く前に、三井記念美術館に寄り道した。つうのは、ちょうどじぶんどきだったので、西利でお昼にしたかった。私は西の人間と言いつつ、小倉藩は徳川の譜代大名だったせいか、わが家のお雑煮は鶏のすまし汁だったので、関西風の白味噌の味を知ったのは大人になってからだった。お雑煮ではないけれど、この店では白味噌のお味噌汁が味わえる。

 三井記念美術館のお正月は、これもまた定番の、円山応挙の《雪松図》。この応挙の代表作を初めて観たのも京都だった。その時は、これが誰かの持ち物だとは思ってもみなかった。三井さんが持ってたのである。三井さんが発注して円山さんが描いた絵だったのだ。そう思うと、この屏風がちゃんと家具に見えてくるし、それがあった暮らしを想像してみたくなる。

  志野茶碗 銘 卯花墻 と、ノンコウと異名をとる楽道入の赤楽茶碗 銘 鵺も展示されていた。この三つだけでも眼福というべきであるが、個人的には、牧谿の絵と伝わる《蓮燕図》と小林古径の《木兎図》がよかった。

 トーハクの常設展は、この季節だけでなく、だいたいいつも人が少なく、その上、優品が多いので気に入っている。それに、撮影可だし。

 ちなみに昨日、大磯の左義長に出かけてみようと思いついたのも、トーハクで《左義長蒔絵硯箱》 伝 本阿弥光悦を観たからだったかもしれない。

 

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  戌年ということにかけて、犬にまつわる絵を選んで展示していた。という場合、円山応挙の《朝顔狗子図杉戸》が展示される。朝顔と子犬が杉の戸に描かれている。知らない人は検索してみるとよい。子犬が超かわいい。しかし、これは杉の戸が背景であるために、普通のカメラでは展示ケースのガラスが反射して写真にならないので撮らなかった。

 紫綸子地竹雲模様と紅綸子地梅樹模様の振袖がはなやかだった。

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 珍しいところでは、亜欧堂田善の《浅間山図屏風》は、油絵で描かれた屏風。小品は観たことがあったが、ここまでの大画面は初めて観た。亜欧堂田善はどういうわけか松平定信の命で長崎に赴き蘭画を学んだらしい。一般的に知られている日本初の洋画家というと、秋田蘭画の小田野直武とか司馬江漢を思い浮かべるが、このふたりは平賀源内の人脈につながっている、ということは、松平定信の仇敵、田沼意次につながっていると思われるのだから、どうもこの時期、幕府内で敵対する、守旧派と改革派でともに西洋画の技法を習得しようと張り合っていたかのように見えてしまうが、何事なんだろうか。興味が尽きない。

 

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 トーハクの別棟の法隆寺宝物館には、田沼意次松平定信の時代の天皇で最近の女帝でもある後桜町天皇の筆になる古歌の掛け軸もあった。

 

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 渓斎英泉の書き初め美人って浮世絵があった。こんなおめでたい系の絵でも、渓斎英泉の女はあの独特な目をしている。離れて、ちっちゃくて、つりあがっている。渓斎英泉は菊川英山の弟子だったそうだ。去年、太田記念美術館で菊川英山の没後150年記念の回顧展があった。菊川英山は喜多川歌麿の非業の死のあと、江戸の人たちの歌麿ロスを癒した絵師であった。個人的な感想としては、下手とは思わないが、歌麿よりうまいとも思わなかった。そういう師匠の絵を観ていた渓斎英泉が、あの独特な顔を発明せざるえなかった必然性について妙に納得した。

 

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 作者不詳の≪渡唐天神図≫があった。これは、去年感動した狩野元信の絵と同じポーズだが、狩野元信のものとは空間意識がまったくちがう。たぶん定型化していたこのポーズをああいう絵にアレンジした狩野元信はやはりさすがだと思う。
 

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 黒田清輝記念館は、お正月のふるまいなのか、代表作を一挙公開していた。わたしは、でも≪湖畔≫がいちばん好きだ。この絵は、油彩で日本の美意識が表現できると示した絵であるし、一方では、油彩という新しい表現方法を手にしたことで、日本の美意識が変わった絵でもあった。
 パリを歩く女たちを「ルノワールの女たち」に変えたと言ったマルセル・プルーストの表現を借りれば、これ以降の日本女性は≪湖畔≫の女たちになって、もはや渓斎英泉の女たちにはもどらなかったはずである。高橋由一が描いた自分の肖像画を見た花魁の小稲は、私はこんな顔じゃないと言って泣いた。そのころの女たちはまだ渓斎英泉や喜多川歌麿の女たちだったと思う。それを黒田清輝は≪湖畔≫の女たちに変えた。そんな魔法の一枚だと思う。

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 ところで、この日はそんな事情で、銀座線から歩行者デッキを渡って上野公園に向かった。すると東京文化会館の建物がきれいに見える。前川國男の設計だそうだ。ル・コルビュジエの設計ってことで世界遺産になった国立西洋美術館より上野にかんしてはこっちの方がよく見えた。

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『塩一トンの読書』

 去年の暮、新幹線で帰省しながら、車窓を眺めつつ、今年は久しぶりに飛騨古川の三寺詣りに出かけようかと思いついた。いつぞやみたいにまさかの雨ってことはなさそうなこ寒さなので雪像の蝋燭が映えるのではと思ったわけだった。

 当日では、宿がとれないのは経験済みなので、とりあえずネットで宿だけ予約したあと、往復のルートを検討してみたが、これはとてもじゃないけど一日休むだけでは済まないってことが判って、新大阪に着く前に宿をキャンセルした。

 それでも名残惜しく深夜バスで何とかならないかと検索してみていたが、そのうちヒットした記事で、三寺詣りも有名になってしまって、昔みたいにしっとりした風情ではなくなっているというのを読んで、わざわざ遠路を出かける気が殺がれてしまった。

 ただ、まあ。そもそもの昔から、親鸞聖人の報恩講にかこつけて、実は男女の出会いの場という意味合いの濃い行事であったらしく、「嫁を見立ての三寺詣り」と地元の小唄に唄われていたそうだ。雪深い門前町とそんな華やいだ雰囲気のコントラストがあの祭りの魅力だと思う。近くに住んでいたらでかけたいところなのだけれど。しかし、今年は逆に雪が多すぎて、もし出かけていたら足止めを食らったかもしれない。

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 そんなわけで、なんとなく旅に心を残しつつ迎えたこの週末ということもあり、じゃあ、大磯の左義長に行ってみようかなと思ったりした。しかし、結局出かけずに読書に過ごしてしまった。あの祭りも間違いなくフォトジェニックだが、個人的な感想としては、火入れの時刻が遅すぎる。この季節18:30はとっぷりと暮れている。まだ残照がかすかに残っているくらいの時に火入れしてもらえれば、「絵的には」さらに良いと思う。せっかく土日開催に変更したわけだから、一時間か一時間半早くやっても来れない人が出るとも思えない。万一の不安があるのなら、時間差で15分くらいずつずらして火入れしていけばよいのではないか。観光客の勝手なお願いではあるが。

 

大磯左義長

大磯左義長

大磯左義長

大磯左義長

 

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 で、何の本を読んでいたかというと、須賀敦子の書評を集めた『塩一トンの読書』。『細雪』の分析は圧巻だった。昔、読書系のメーリングリストにはいっていたころに、毎年一回『細雪』を読み直すという人がいたが、私ももう一度読んでみようかなと思った。

 ゲーテの『イタリア紀行』は私はたぶん読んでないと思う。「たぶん」って言ってる時点で、読書の質がばれようというものだけれど、『詩と真実』を読んで、『イタリア紀行』にかかろうとしたころ、身辺に変動があった記憶があるのだ。いずれにせよ、古い話になってしまった。

 

塩一トンの読書 (河出文庫)

塩一トンの読書 (河出文庫)

 

 

黒塗りの排除は典型的なドグマティズム

 教条主義、あるいは、ドグマティズムとは何か。コトバンクによると、デジタル大辞泉には「状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。」とあり、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典には「哲学上では定説主義や独断論をさすが、マルクス主義理論では実践による検証を怠り,マルクス、レーニンらの教義を無批判に盲信するような知的怠惰をさす。」とある。

 なので、今回の場合、当該の行為自体に、悪意も差別感情もないと承知しながら「黒塗りは差別だとされている」という「特定の原理・原則」に固執し、まったく文化背景の異なる社会での出来事にそれを適用しようとしたわけなので、典型的なドグマティズムと言える。

 ドグマティズムは、大辞泉にあるように、教条主義のほかに、定説主義、独断論とも。独つの定説ですべてを断じるわけだから、教条主義者は議論をよせつけない。黒塗りは何故だめなのかという問いに対する答えとして、ダメなのが国際標準だからだというのは、ちょっと聞くと理にかなっているように聞こえるものの、実のところは、ダメだからダメと言っているだけの完全な循環論だ。

 今回のケースの異常さは、発言者自身が、このケースに差別感情も悪意もないと知っているのに糾弾していること。まさに「原理・原則に固執する応用のきかない考え方」だろう。

 そしてこれも繰り返しになるけど、一番重要なのは、黒塗り=黒人差別ではないわけだから、黒塗りを排除したところで、黒人差別の排除にはつながらない。実際、黒塗りがタブーとされているアメリカでこそ、毎日のように、黒人と白人が殺しあっている。そういう自国の状況を顧みず、そんな国の標準とやらを、歴史的にも地理的にもほとんど黒人差別と接触のない日本に強要しようとしている。まさに「実践による検証を怠った知的怠惰」だろう。何が「国際標準」だ。

 国際標準だろうが、ただの思い付きだろうが、議論を排してはならない。常に議論に開かれているべきだ。

 黒塗りが廃されている国の警官が黒人を殺して無罪放免。黒塗りが平気な国で黒人差別がほとんど問題にならないのなら、黒塗りを排除すること自体が間違いである可能性が高い。

 黒塗りを不快に感じる人がいるかぎりやめるしかないという議論を見かけたが、それこそ差別を助長する考え方だ。黒人を不快だと感じる人がいたら黒人は退席しなければならないのか。私はそうは思わないが、この論理だとそうなる。

 差別を乗り越えようとしてきた努力に逆行しているみたいな理論も納得できない。なぜなら、まったく乗り越えてない。乗り越えてないじゃないか。トランプを大統領に選んでるじゃないか。メキシコ国境に壁を作って、イスラエルの首都をエルサレムにして、オバマが実現したイランとの和解もキューバとの和解もぶち壊してる、そういう大統領を選んだ国の標準に合わせてもロクなことになるか。

 ほんとバカじゃないのか。大みそかのお笑い番組で、日本のお笑いタレントがアメリカのコメディアンのマネをしたってだけだぞ。暇だな。