『近代以前』

 江藤淳の『成熟と喪失』は刺さった。上野千鶴子のあとがきにもあったが、思わず目を背けたくなるほど正確で、それについて何かを書こうという気も起きなかった。
 河合隼雄が『母性社会日本の病理』を書くより早く、しかも、安岡章太郎の『海辺の光景』や小島信夫の『抱擁家族』など、小説を読み込むことで、近代以降の日本の家族が、構造として抱えることになった問題を描き出してみせたのは、ユング派の心理療法士としての臨床体験を基にした河合隼雄より、ずっと一般性があり、読者にはそこに描かれていることを「病理」と突き放して考える余裕はない。
 「読者」といっても、ここでは私のことなんだが、身分、階級、地域社会などの縛りから解放され、急速に資本主義化する社会で、豊かになる一方で、人はつねに、「ありえたかもしれない別の自分」の可能性にさいなまれることになる。なかでも、母は、核家族化のために子を育てる役割しか与えられていないために、自己実現の欲求をわが子に投影するしかない。
 自身の自我に目覚めるはるか前に、母の自己実現のよりしろとなっている子の自己実現はどのようなものになるのか、考えるだに悲惨だ。自由といっても、工業化を急ぐためという条件付きの自由では、人はこうして自己を見失う。上野千鶴子が書いているように、あまりに急速すぎた近代化は、親のようにならないことが「近代化」であり、社会的成功であるという不幸な状況を日本の家族と社会にもたらした。
 このように、深い、おそらくもっとも深いところまで透徹した認識を示しながら、しかし、江藤淳という人が、ひどく魅力的で不思議なのは、江藤淳はここに、父性原理の欠落を見てしまう。一見、正しいように見える。しかし、それだとまた振出しに戻ることにならないだろうか。
 去年、小熊英二の『民主と愛国』を読んで、そこで紹介されていた江藤淳の、フランスの実存主義者の明るさを見せつつ、同時に「日本に帰ったら靖国のそばに住みたいね」と奥さんと語り合ったという、私には不可思議な一面は、いったいどこでバランスが取れているのだろうと読み進めてみたわけだったが、『成熟と喪失』の鋭さに刺し貫かれながらも、その謎はまったく解けないままだった。
 『近代以前』は、江藤淳プリンストンから帰国したあと、『成熟と喪失』の前に書いていた連載をのちに本にまとめたものである。福田和也が編集した『江藤淳コレクション』の第四巻に抄録されていたのが面白かったので、全編を読んでみた。
 福田和也の編集では、この抄録のあとに「リアリズムの源流」の抄録がくる。これは、坪内逍遥二葉亭四迷から、高浜虚子正岡子規にいたる間に、日本語の文章が劇的に変化を遂げるさまを、実例を挙げながら的確にとらえたもので、しかも、それが虚子から、夏目漱石徳田秋声へとつながっていく。これは、つまり、坪内逍遥二葉亭四迷の小説論があり、そして、その一方で正岡子規高浜虚子の、俳諧に発端を持つ写生文があり、それが、社会の変化を間に挟みながら、今、私たちが目にしているような小説を生んでいく、と、こう書けば簡単なようだけれど、これを文学史全体の中からつかみ取るのに、どれほどの知性と胆力が必要かと思うと、感嘆せざるえない。
 『近代以前』は、藤原惺窩が関白秀次の目を逃れて明に渡ろうとするところから始まる。そして、最後の章は、上田秋成雨月物語で終わる。これも見事だし、なにより面白い。
 個人的には、わたしも本居宣長より上田秋成に味方したい。今でいえば、本居宣長はブロガーみたいなものだと思う。上田秋成は作家だ。本居宣長は、絵が嫌いだったそうだ。絵はウソだからということらしい。それでもただひとり祇園井特という絵描きだけは認めていて自分の肖像画を描かせている。祇園井特の絵にはウソがないということだったそうだが、祇園井特の絵と、当時活躍していた絵描き、円山応挙でも長澤芦雪でも曽我蕭白でも彼らの絵と比べてみれば、本居宣長の限界がもじどおり見えちゃう。と、私は思うわけだけど、それが私の限界だといわれればそれはそうでしょう。
 「国姓爺合戦と国家意識」の章は、これが1960年代に書かれたのは奇跡みたいに思う。日本人の国家意識はまさにこれだろうと、ネトウヨが「日本人、日本人」と連呼してるのを見ると、あまりに的確に予言していたようで笑ってしまう。
 何のことはない、近松門左衛門が書いた浄瑠璃の主人公が、日本人の国家意識の原型だったのである。この章を読みながら、石原莞爾を思い浮かべてしまった。彼が満州事変を引き起こした当時、「石原将軍の後ろを歩いていると弾が当たらない」と、ばかばかしいうわさが飛び交ったそうなのだ。まさに浄瑠璃か歌舞伎の世界だ。そこから、右翼もネトウヨも一歩も外に出ていない、どころか、半歩ぐらい後退しているかもしれない。
 しかし、これを書いている江藤淳という人を考えると、ますます面白い。「僧形の儒者」にヒントがあるのかもしれないと思った。仏教徒をはげしく嫌っていた林羅山が、家康に命ぜられて、あっさり出家してしまうについて、ずいぶん、強引なかばい方をしている。
 後世の儒者たちからずいぶん批判される林羅山の出家だが、そういう儒学の基礎を徳川幕府に築いたのは林羅山なんだし、批判されても「うむうむ、むべなるかな」みたいな気分だったでしょうみたいなことを書いてるけど、説得力があるように思わない。そこにほころびを感じないではない。

『こんな夜更けにバナナかよ』

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こんな夜更けにバナナかよ
 今年の初映画は『こんな夜更けにバナナかよ』でした。
 大泉洋が、首から上と手しか動かせない人を見事に演じています。トナカイの被り物をして「オレが楽しんじゃいけないのかよ?」と電話してるシーンなんてホントうまいなと思いました。
 萩原聖人渡辺真起子という『きみの鳥は歌える』のふたりがここでもいい味をそえていました。実話なので、この2人が演じている古馴染みのボランティアが、もともと友達だったのか、それともボランティアとしての付き合いなのかは、よく分からないんですけど、介護する側とされる側が「対等」っていう価値観がよく分かりました。
 「オレは困ってる人を助けたいんで、鹿野さん、結構楽しんでるし」みたいなことを言って辞めていくボランティアがいたんですけど、やっぱ、それは間違ってると思います。
 高畑充希って女優さんは、独特のエグ味っていうか、ザラっとした引っかかりがある人だと思ってるんですが、この映画は、大泉洋三浦春馬との三角関係っていう骨格もあるので、その辺を支えるヒロイン役としては、このくらいの存在感がないと、お姫様みたいな女優さんではダメだったと思います。
 こういうことを書くとネタバレと言われるかもしれないですけど、大泉洋高畑充希にプロポーズするところを見て、この鹿野って人は、ホントにスゴイカッコいいなと思いました。
 母親役の綾戸智恵もすごくいいなと思いました。メインプロットとは関係ないところなんですけど、主人公のキャラクターに説得力を持たせる重要な役割なので、ここの脚本がきちんと書き込まれていて、ちゃんと演じられているのは、たぶんいい映画の条件のひとつなんじゃないでしょうか。
 ピンク電話とか時代背景もしっかりしていて、三浦春馬は、ポロシャツをパンツインしてても、結局いい男はいい男なんだなと。大泉洋三浦春馬高畑充希っていうキャスティングは、大成功だったと思います。
 今年の初映画がいい映画で、ちょっと嬉しいです。

日韓関係の本質

 一歩引いてみると、子供の喧嘩にしか見えない。発言するのが恥ずかしくなってきます。
 しかし、ここで、一つだけもっとも本質的で、心しておかなければならないことを確認しておきたいと思います。
 それは、「わたしたち」は「戦争の被害者だ」ということです。たしかに、日本人は自分たちが戦争の被害者だとはいいにくい。しかし、そういうべきだと思います。
 ある人はこういうかもしれない、「私たちは戦争の被害者だが、あなたたちは戦争の加害者だ」と。また別の人はこういうかもしれない、「私たちは戦争の加害者だが、あの戦争は正しい戦争だった」と。
 それは、どちらも間違いです。わたしたちは戦争の被害者でしかなく、そうでしかありえない。だから、戦争は避けなければならないんです。
 「わたしたち」は「戦争の被害者だ」という認識は、少し前の世代までは、きちんと共有されていたと思います。金大中大統領は、公の場で日本語を話すことをいとわない人でしたが、「昭和天皇に戦争責任はない」と語っていたのを聞いたことがあります。テレビでですよ、もちろん。
 こういうことを書くと、今ではまるで、とんでもない右翼のように聞こえるのかもしれないのですが、冷静になって考えてみれば、昭和天皇に限らず、戦争責任の問題は、東京裁判で決着している。そこから、戦後秩序が構築されてきているわけなんです。
 戦後、二十年、五十年、七十年とたってなお、天皇の戦争責任のあるなし、侵略戦争か否かなどということをうだうだ言っているのは非常に愚かしい。
 戦争に勝った連合国が、裁判で天皇に戦争責任はなかったと言ってるんだから、それはないんですよ。そして、初めて「戦後」がスタートできたはずなんです。でなければ、日本人はいまだにoccupied Japanのままのはずです。昭和天皇は縛り首になっていたかもしれない。
 A級戦犯靖国神社に祀られてから天皇靖国に参拝しないのは当然です。天皇A級戦犯を「参拝」するなんてことがもし起きたら、戦後秩序そのものが土台から壊れてしまう。「戦争犯罪者を参拝する」などという行為は、よほど無知蒙昧な人間のすることです。違いますか?。
 もう一度言いますが、「わたしたちは戦争の被害者」です。「戦後世界」とは何かと言えば、戦争の被害者が、戦争の加害者を葬り去った後の世界のことです。
 なので、戦後世界には戦争の加害者はいない。左翼が「日本人は戦争の加害者だ」というのは、したがって間違いだし、右翼が「あの戦争は侵略戦争ではなかった」というのも間違いです。
 こう考えた上で、日韓関係をながめてみると、まず、慰安婦問題は、そもそも、日本人の慰安婦もいたのだし、韓国人の兵士もいたわけですから、はじめから、日韓二国間の問題ではありえない。
 謝罪するしない、賠償するしないにかかわらず、韓国政府は何の関係もないんです。そもそも国家間の問題ではないものを国家間の問題てあるかのように言っているからプロパガンダだと言ってるんですが何か間違ってますか?。
 韓国人の慰安婦もいたのと同じように、韓国人の兵士もいた、にもかかわらず、自分たちは被害者でお前たちは加害者だという態度は明らかに間違いです。
 前にも書いたことですが、むかし、小泉今日子が韓国のテレビ番組に出た時、ホストのふたりが酔っぱらった上に、アガってしまって、殴り合いのけんかを始めたのを見たことがあります。韓国では文化人であるはずのいい歳のおじさんが、日本のアイドルにアガってしまっている。
 もし私がそのテレビを見ている韓国人だったとしたら、恥ずかしくて死んでしまいたくなると思いました。しかし、それが、ほんとに当時の、ほんの二十年くらい前の韓国のすがただったんです。記憶から消してしまいたいかもしれません。俺たちは被害者だ、あいつらは加害者だと思いたいのはよくわかる。しかし、間違ってます。
 戦争中、韓国は日本の属国だった。連合国にいたわけではない。中国は連合国にいて、そして、戦争に勝った。でも、韓国は、日本の側にいて、しかも属国で、そして、負けた。それだけ。中国には勝利があった。だから、日本にコンプレックスを抱かない。でも、韓国には勝利もなければ正義もない。ただ、宗主国である日本が負けたから独立できただけ。そのコンプレックスから逃れられない一部の人が、わけのわからないことをわめいている。それが、慰安婦問題の本質です。
 今の韓国は、日本から見てもうらやましいくらいの経済大国になっているのに、なぜそのような愚昧なコンプレックスを抱き続けなければならないのか、日本人にはよくわからない。レーザー照射の問題にしても、ちょっと謝れば済んだことなのにそれができない。わたしには、小泉今日子にアガって酔っぱらってたあの文化人の姿が思い出されます。
 日韓関係において韓国が間違っている点は「自分たちは被害者だが、お前たちは被害者ではない」という考え方、そして、日本側の間違いは、「あの戦争は間違いじゃなかった」という態度です。
 もういちど戦後の出発点に戻らなければならないでしょうか?。戦後世界は、「侵略戦争の加害者はすべて縛り首にして、被害者たちで再構築した平和世界」以外ではありえません。
 したがって、韓国の挺対協の態度も、日本の日本会議の態度も、ともに戦後秩序に対する挑戦だということになるでしょう。戦後、国際社会が営々と築き上げてきた秩序を破壊しようとする態度は間違っていると私は思います。

昨日の補足(してもしなくても分かる人と分からない人に変化はないだろうけど)

 昨日書いたことの補足をしなければならないという気になりました。
 中央日報の記者が、彼ら韓国人が約束を守らないと自覚してるのは、悪いことじゃないと思います。ウソだと分かって、ウソをついてるのは、そんなに悪いことではないんです。
 そう言いつつ、正義が大事だと言ってるんですけど、約束守らない人が正義を大事にするはずないですよね。だから、正義が大事だっていうのもウソなんです。いうまでもありません。
 だから、悪いと言ってるんじゃないんです。約束も正義もどうでも良いというのは、それは、別に韓国人に限ったことじゃない。それとも、日本人が正義と真実の使徒だとでも?。
 慰安婦の議論が熾烈を極めたときに、このブログでも、ずいぶん本気になって色々考えて色々な発言をし、色々ご批判やご指摘もいただいたわけですが、一歩ひいて眺めてみると、韓国人も、口にしていることと、腹で思っていることは違ってるってことに気がついたわけです。
 徴用工の問題も、レーザーの照射も、韓国は韓国で自国に都合のよい結果に落とし込めるように、立ち振る舞っているにすぎない。当たり前ですよね。だから、日本もそう振る舞えってことを言ったわけなんです。だから、今回のレーザー照射問題に関しては、日本の外交関係者の態度は、なかなかクレバーだったと思いますっていうことを、昨日言ったわけなんです。
 どっちが子供じみているかといえば、どちらだろうか?。ネトウヨ作家が、「クズ」とかなんか言ってますけど、それ、何になります?。バカですよね。そういうことです。

韓国との付き合いはやめて北朝鮮バブルに賭けましょう

 韓国海軍の駆逐艦が、海上自衛隊のP1哨戒機に、火器管制レーダーを照射した問題に対する、日本の外交関係者の行動を見て、彼らがようやく韓国に対する付き合い方に慣れてきたんだなと思いました。
 具体的に言えば、まず、事件が発生した直後に公表したってことから、韓国との議論は、すべてを開かれた場で行い、日韓の二国間の問題にしないということが徹底されているんだなと思います。

 慰安婦の問題についても、徴用工の問題についてもそうでしたが、韓国は、日本と二国間で交わした約束や合意事項について、守る必要がないと思っているのは間違いないようで、1月4日の韓国紙「中央日報日本版」のコラムに「約束を守る国・日本、正義が重要な国・韓国」という、私はスマートニュースで見かけたんですが、改めて検索してみると、もうすでに大反響らしく、いっぱい引っかかってきて元ネタがどれかすこし迷いました、それを一読すれば、つっこみどころが山と出てくるんですけど、韓国人が約束を守らないということについては、韓国人自身が自覚的なようです。
 そして、自分たちの側が正義であることについても疑いをはさんだことがないようです。慰安婦について議論が盛んだったころから、なんか変だとは思っていたのですが、ウソが平気なんですね。だから、ウソを指摘されても痛くもかゆくもない。でも「正義が重要」だと思っている。嘘だろうが何だろうが正義が自分の側にあるなら、そりゃそうでしょう。
 で、このレーダー照射問題については、事件当初は、韓国軍のはねっかえりの兵士が、バカなまねをしたんだろうなと、ほとんどの人はそう思っていただろうと思います。構造は、去年末のM-1のスーパーマラドーナ武智と同じじゃないですか?。穏便に済ますにせよ、厳罰に処すにせよ、それが外交問題にまでなると思った人はそんなにいなかったのではないでしょうか?。同じ問題が中国とも起こったことがありましたが、その時でさえ、今回ほど大きな問題にならなかったのに、とにかく、自分の側に正義かあると自国の無謬性に固執しているので、どうしても謝れない。
 二転三転している発言をみれば、主張が苦し紛れなのは、誰が見ても明らかで、よほどの韓国びいきでないかぎり、事の真相についてわからない人はいないと思うんです。
 したがって、日本の外交にとっては、この問題は放置しておけばそれでよいということになるでしょう。長引けば長引くほど、さっきの中央日報のコラムもそうであったように、韓国の特殊性が明らかになると思います。
 この二日に、韓国国防省は、海上自衛隊のP1哨戒機が「低空飛行」したとして、逆に日本に謝罪要求してきたんですが、これは、たぶんこうなるだろうと予想していました。12月29日に小川和久さんのコラムに、「2014年、中国青島で開かれた西太平洋海軍シンポジウムには、21カ国の海軍首脳が①レーダー照射、②砲身を向けた威嚇、③低空飛行による威嚇、の3項目の禁止で合意した。韓国海軍も出席している。」とあるのを読んだからで、1で非難されて(実際には誰も非難してないんですが)、2で非難できない以上、3で難癖をつけるしかないからです。子供みたいにわかりやすい。
 韓国は「反論動画」なるものを八か国語版を作って世界に公開するらしいのですが、それって、要するに、慰安婦の少女像とおなじ手口ですよね。
 だから、日本の外交関係者は、韓国の主張する「正義」ってこういうことなんですよってことを、地道に世界に発信していく良いチャンスにできると思います。
 私は前から言ってるんですが、むしろ、北朝鮮と親交を結ぶべきです。防衛という観点からは、中国、韓国、ロシアに向けた橋頭保を築ける。核の脅威がなくなり、かえって、核兵器を手に入れられる。韓国より先に、北朝鮮と和解できれば、北方領土交渉においても日米安保についても、有利になると思います。
 経済面では、北朝鮮の労働力が手に入るし、成長の上澄みをはねられる。移民を受け入れるよりこの方がはるかにリスクが低い。
 ジム・ロジャーズさんのインタビューによると
「主要各国が巧みに北朝鮮から経済的利益を引き出そうとしている中、日本政府の対北朝鮮政策が方向性に欠けていることから、拉致問題も国交正常化も進まない「外交失策」状態に陥っている。」
ということだそうです。
 文政権になるまでは、日本が北朝鮮の成長を独占できる大チャンスだったんですけどね、今からでも、北朝鮮バブルには備えておくべきだと思います。というか、それ以上の景気策は存在しないと思います。
 あ、それから、蛇足ですけど、ネトウヨがらみの作家や文化人たちが、ヘイトな書き込みをしてるようですが、それはただのバカなんでバカにしませう。

ジム・ロジャーズ「北朝鮮バブルが来る」
ジム・ロジャーズ

いま、沖縄で起きていること

 いま、沖縄で起きていることに心を傷めない日本人はいないだろうと思う。日本の文化は歴史のはるか以前から、日本の自然が育んだものに他ならない。日本人という生物学上の分類があるわけではなく、それが文化に根拠を置いている分類である以上、その文化の根拠にある日本の自然が、米国の基地のために無残に傷つけられるのを見て平然としていられるのは日本人とは言えない。
 「敗戦の当時 、 「天皇 」が死に 、また 「国 」が破れたときそのむこうからやってきたもの 、それは 「山河 」にほかならなかった 。 「国破れて 」残り 、戦に敗れても 「何の異変もおこ 」さなかった自然が 、そのむこう 、 〝天皇 〟の剝落したむこうから現われ 、ぼく達をささえたのである 。」
と、加藤典洋が書いている。
 「横光君、僕は日本の山河を魂として君の後を生きていく 。」と1947年、横光利一の弔辞を述べた川端康成が、ノーベル賞受賞の記念講演で
「彼は良寛の辞世に触れて 、これは 、 「自分は形見に残すものはなにも持たぬし 、なにも残せるとは思はぬが 、自分の死後も自然はなほ美しい 、これがただ自分のこの世に残す形見になつてくれるだらう 、といふ歌であつたのです 」という 。」
 高度経済成長期に、日本自然が次々に殺されていったことは言うまでもない。私が子供だった70年代は、大阪の郊外でも、秋の夕暮れの空には、赤とんぼが空を埋めるのを見ることができた。
 日本人が営々と築き上げてきた繁栄を愚かしい戦争で破壊し尽くしたあげく、戦後は、今度は経済成長のために、文化のよりどころである自然を、日本人自身の手で殺してきた、その総仕上げが、いま、沖縄で行われていることである。
 日本人は、いま、自分で自分を縊り殺そうとしている。それに反対しようとする人たちを「売国奴」呼ばわりしている連中がホンモノの売国奴なのはいうまでもない。
 ホンモノの売国奴を目の当たりにして心塞がる思いをしない人はいないだろう。

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

 

2018年に観た映画

 年の瀬なので、今年の映画をふりかえります。『ボヘミアン・ラプソディー』とか『カメラを止めるな!』みたく、大ヒットした映画は言及するまでもないんだけど、いい映画だったのに、話題にならなかったなって映画を紹介できればなと思います。個人的に観た月ごとにわけてあるので公開時期とは微妙にずれています。

1月

ベロニカとの記憶

 ジュリアン・バーンズの原作はすでに読んでいたんですけど、ジム・ブロードベンドの存在感で、小説より映画の印象が強くなりました。
 ちなみに、ジム・ブロードベンドの若いころを演じたビリー・ハウルは、『追想』でも、シアーシャ・ローナンの彼氏を演じてます。ここには上げてないけど『追想』もいい映画でした。あげるべきだったかもだけど、小品すぎる気がしてためらってしまいましたかね。同じく新潮クレストブック原作(『追想』の原作はイアン・マキューアンの『初夜』)のうちどちらかと言われれば、私はこっちを上げたいという気持ち。

2月
『スリー・ビルホード』

 これは言うまでもない映画の方です。フランシス・マクドーマンドサム・ロックウェルウディ・ハレルソン

『変態だ』

 これが公開されたのはたぶん去年だったと思う。わたしは川崎のみうらじゅんの展覧会で。みうらじゅん企画・原作・脚本。安斎肇監督。みうらじゅんって、とりあえず、天才なんだなってわかる作品。

3月

素敵なダイナマイトスキャンダル

 ヒットしたのかしなかったのか知らないけど、熱量が高い一方で、ディテールにこだわっているのが嬉しくなりました。横尾忠則にあこがれながら、キャバレーの看板を描きまくってるころがコアなんだと思います。

4月

ペンタゴン・ペーパーズ』

 スティーヴン・スピルバーグが『レディープレイヤー1』の制作をいったん中止して、撮影チームごとアメリカに連れて帰り、わずか5ヶ月で完成させた。メリル・ストリープトム・ハンクスという二大スターのスケジュールが空いていたのも奇跡的。

5月

ボストン・ストロング

 主演のジェィク・ジレンホールが製作にもかかわっている。原題は『stronger』と比較級になっていて、この邦題の戦意高揚的な雰囲気に対するアンチテーゼにもなっている。日本では「ボストンストロング」って言葉自体が知られていないからこうなるのは仕方ないかも。対テロ的な映画ではなく、自己肯定感に欠けた主人公の再生がテーマになっている。

6月

万引き家族

 祝パルムドール!。

30年後の同窓会

 『6才の僕が大人になるまで』のリチャード・リンクレーター監督。『フォックス・キャッチャー』のスティーブ・カレル、『トランポ』のブライアン・クランストン、『マトリックス』のローレンス・フィッシュバーン。特に、スティーブ・カレルがすばらしい。

『ザ・スクウェア 思いやりの聖域』

 『フレンチアルプスで起きたこと』で鮮烈に登場したリューベン・オストルンド監督の、その次回作で、是枝監督の前年にパルムドールを獲得した作品。美術館によくいく人はけっこう笑えると思う。

『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』

 サリー・ホーキンスでは、アカデミー賞を獲得した『シェイプ・オブ・ウォーター』よりこちらの方が好き。最後に紹介されるモード・ルイス本人の動画を見たとき、「えっ、サリー・ホーキンス?」と思った。

パンク侍、斬られて候

 脚本を書いた宮藤官九郎が「こんな映画を作った時点で勝ち」と。

『小津4K』

 『晩春』、『麦秋』、『東京物語』を観て、『晩春』はハッキリ反戦映画だと思いました。

7月

『心と体と』

 『万引き家族』がパルムドールなら、こちらはベルリンの金熊賞なのに、たぶん、屠殺場のシーンがあるというだけで敬遠されたと思う。

『女と男の観覧車』

 ウディ・アレンの映画としてはあまり話題にならなかったかもだけど、たぶん、"Me too"が影響しただけじゃないかと。

菊とギロチン

 今年の日本映画では、これを先ず推したいと思います。東出昌大が演じた「口だけ」の革命家が「摂政暗殺」と口走る。たぶん、それだけで敬遠されたのかもな。

バトル・オブ・ザ・セクシーズ

 スティーヴ・カレルは、『30年後の同窓会』と同じ人とは思えない。

ブリグズビー・ベア

 ルーク・スカイウォーカーマーク・ハミルが「乗ってる」ってことでしょう。

8月

『カメラを止めるな』

 日本が世界に誇る低予算ギャグ映画。

『サバービコン』

 ジョージ・クルーニー会心の一作なんじゃないんだろうか?。コーエン兄弟ジョージ・クルーニーが組むと大概すべるんだけど、今回のぶっ飛び方はすごい。評価は散々ですけど、それも含めて笑える。ジョージ・クルーニーが裏方に回って、主役をマット・デイモンがやったのが良かった。

9月

判決、ふたつの希望

 パレスチナ難民の今が垣間見える、レバノン映画。

『それから』

 キム・ミニの演じる大学生が、出版社に就職して、1日で辞める、その経緯。『カメラを止めるな!』より低予算だと思う。

10月

きみの鳥はうたえる

 佐藤泰志の原作を大胆に読み換えている。原作者が故人だから遠慮がないともいえるが、でも、30年とかの時を経て、小説が熟成されてるっていう、なかなか得難い経験をした。

『音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねえんだよ!!』

 三木聡作品は見逃さないようにしてる。前作の『俺俺』がかなり実験的だったのに比べて、今回はストレートでサービス精神満載。三木聡版『スター誕生』。J popのアーティストたちが提供した楽曲も本気。

ムタフカズ

 フランスのバンド・デシネを原作に、日本のスタジオ4℃かアニメ製作、草なぎ剛柄本時生満島真之介などが声優を務めた。

11月

search/サーチ

 PCモニターの画面だけで展開することが話題になったけど、けっこう本格的な推理劇で、二転三転する展開に引き込まれた。

クレイジー・リッチ!

 主要キャストがすべて東洋人なのに、全米で大ヒットした。オーソドックスなシンデレラストーリーだけど、いま、オールドワールドでは、こんなシンデレラストーリーにリアリティを感じられないんだと思う。

『華氏119』

 マイケル・ムーアの映画といえば、昔は笑いながら観たものだが、いまは、涙なくして観られない。

『a ghost story』

 このくらい非正統的でないと、わたしたちは自分の生死について納得できない?。『クレイジー・リッチ』と対照的。

『ジャクソンハイツへようこそ in Jackson Heights』

 全く説明のないドキュメンタリーなので、私、ちょっと誤解したかもしれない。gentrificationを食い止めようとしている活動家と、make the road NEW YORKの活動家は別かも。

12月

ボヘミアンラプソディー』

 これは現在進行形でヒット中。

『アリー/スター誕生』

 いろんなレビューを見てると「大スターが落ちぶれてゆく・・・」みたいな書き方をしてるけど、このレディ・ガガ版は違うと思う。アリーがジャックに「ヤキモチなの?」と尋ねるシーンがある。

『パッドマン』

 生理用品がモチーフだからって敬遠するのは惜しい。