『ウインド・リバー』、『オーシャンズ8』

 『オーシャンズ8』はダメ。『ウインド・リバー』は○だけど、オススメはしない。

 ドロボーを主人公にした映画をダメにしたのは「ハッカー」てふ「デウス・エクス・マキナ」の存在だと思う。

 世界一のセキュリティー、でも、ハッカーがひとりいれば破れちゃう。観客も「ハッカーだから」で納得しちゃう。これからの映画は「ハッカー禁止ルール」を作らなきゃなりませんな。少なくとも、一定の制限を設けるとか。

 『オーシャンズ8』のもう一つの問題は、サンドラ・ブロックケイト・ブランシェットアン・ハサウェイ、ヘレナ・ボナム=カーターとスターを並べながら、見せ場を作ってないじゃん?。これだと無名の役者を使った方がいい。

 この『オーシャンズ・・・』のそもそもが1960年の映画で、フランク・シナトラディーン・マーチン、サミー・デイビスJr.と、スターシステム全開のハリウッド華やかなりし頃を懐かしむっていう映画でしょうに。

 だから、スターの顔見世興行でなければいけませんよ。「メット・ガラ」という華やかな舞台を選びながら、見せ場を作らないなんて、エリック・クラプトンをゲストに呼んで、ずっとサイドギターを弾かせてるみたいなことですよ。ソロは?って。そういう意味で、煮え切らない映画でした。

 『ウインド・リバー』は、その逆に、ここまで西部劇でよいものだろうかと。ただ、白人とインディアンの立場がぎゃくですけど。ジェレミー・レナーは「新境地」と、高い評価を受けているようです。

 よくできた西部劇。最後の銃撃戦のとこなんかほんとにかっこいい。エリザベス・オルセン可愛いい。ジェレミー・レナー渋い。景色は雄大。言うことない。

 でも、よくできてるけど西部劇。ネイティヴ・アメリカン居留地の感じは、野田知佑の本とか読んだ方が分かる。結局、白人の映画かって思っちゃうって意味で、西部劇を観たって感想しか残らない。

『戦争論』20周年

 前にも書いたけど、週刊SPA!小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」を再開しているが、どうも、懐古的になってしまっているのか、先週までは、オウム事件について3週くらいに渡って書いていた。

 確かに、オウム事件の死刑囚たちが大量処刑されたのは今年だけれど、オウム事件そのものは1990年代のことで、そこらのことを今更縷々書きつらねることにどれほど意味があるのか、ないとは言わないが、作家としてのこの連載に対する姿勢に「あれ?、大丈夫か?」って感じになる。

 オウム犯の死刑については、「大衆が支持している」って言ってるけど、根拠は曖昧ですよね。個人の感想としては、大衆は無関心なだけだと思う。

 今週は、「『戦争論』20周年」って、日経新聞の「私の履歴書」やないねから。そう振り返られてもね。

 それで、この『戦争論』について、小林よしのりがいつも言うことは、「自虐史観の空気の中で沈黙を強いられていた方々から」感謝の声が届いた、「それまで、戦争体験者は悪人とされていたので、孫は祖父を敬遠していた」のが、孫と話せるようになった、とか言うのがあるんだけど、なんか「ぬるい話」で、ドイツでは1968年には、若者がその父親の世代に対して「お父さん、戦争で何をしたの?」と自分の父親に問いただす運動があった。

 本来、親子の世代で戦われるべき価値観の対立をなあなあで避けてきた、そのツケがジジイになった今になって回ってきただけだろう。「孫」は関係ないわけよ、大泉逸郎やないねから。

 戦争について、何か語るべきことがあったんなら、自分の言葉で、わが子に話しとけよ。戦争を知らない世代の赤の他人のマンガに代弁してもらって、「孫と話せて嬉しいです」じゃねえわ。その孫がつまり「ネトウヨ」ではないか?。表現のスタイルという点からも、やはり、小林よしのりネトウヨマトリックスなのである。

 他のことはともかくその理屈だけは訳がわかりませんね。

非伝統的電源政策

 Twitterで、反原発派と原発再稼働派が罵り合ってる。

 そうこうするうちに99%の停電が解消したそうだ。

 原発再稼働をいう堀江貴文さんは、福島第二原発の事故の時、まだ長野の刑務所にいたので、あの時の切迫した感じを理解していないんだと思う。

 原発について個人的におもうことは、「現に」事故が起きた。のだから、原発を再稼働すべきではない。

 一行の文章で片付けてしまって恐縮だが、これだけのことだと思う。福島第二原発の事故の責任を誰かが取ったか?。「想定外」で責任が取れないなら原発を動かすなどとは言えないはず。違います?。

 あの時、菅直人が提案していたように、何百万戸の単位で、ソーラーパネルを無料配布し、電源のインターネット化を図るのは、よいアイデアだったと思う、小沢一郎に潰されてしまったが。

 電気というインフラは、道路以上にベーシックなインフラになっている。全く外に出ない日はあるけど、電気を使わない日はない。だとしたら、これはもう公的機関で、利潤追求を離れた形で提供すべく、制度を変更していくべき時期なのかもしれない。東京電力は、事実上、政府の管轄に置かれているのだし。電気が民間会社で運営されていたのは、電気の使用が特権的だった時代の残滓にすぎないと思う。

 そして、不慮の事故に対処するためには、電気のインターネット化、言い換えれば、管理に人手がかかる大規模な発電所を数カ所もうけるのではなく、管理の簡単な小規模発電を無数につなぐことで、致命的な被害は常に回避できるはず。

 1995年の阪神淡路大震災以来、自然災害が連続しているのだから、そうした「非伝統的電源政策」が検討されるべきだろう。

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モネ それからの100年

 横浜美術館は、キュレーションが面白いし、常設展も充実していて、しかも撮影OKだし、ほぼ展示替えのたびに訪ねている。
 今回の「モネ それからの100年」も、もちろんいつものように訪ねたのですけれど、そんなにヒットする企画じゃないだろうと多寡をくくってた。ところが、けっこうなにぎわいで、美術館の人に「人が多いですね」と聞くと「お盆ですから」と。美術館って、お盆だと人が多くなる場所でしたかしらと思ったが、スタッフがそういうからにはそうなんでしょうな。思い返して見ると、わたくしお盆の時期にはここに来たことないのだ、帰阪しているからね。

 これは、モネの《ウォータールー橋》の連作のひとつ。
 モネは徹底的に色彩画家なんだと思う。こればかりは誰も否定しないだろう。なので、モネの絵こそ実物を見ないと写真では何もわからない。たとえば、上の絵でも、実物を見ると

こう見えるかもしれないし、

こう見えるかもしれない。

こうかも。
 モネの絵を観ていると、「墨の五彩」という言葉を思い出す。この微妙な色彩は、却って水墨画に近いと思う。
 西洋の風景画が風景を前にしているように描くのに対して、東洋の水墨画は風景の中にいるように描く。と、誰かが、確か、ピーター・ドラッカーが言ってた気がする。
 マルグリット・ユルスナールの短編集『東方奇譚』に「老絵師の行方」という短編がある。今まさに暴君に殺されようとする老絵師が、屏風に河を描くと、そこから水が溢れ出し、死んだ弟子が舟を漕いで迎えに来る。
 このモネの絵は、その話を思い出させる。そうなると、ジャポニズムというよりシノワズリなんだが、ただ、もしモネの絵を水墨画の技法になぞらえるなら、没骨法で、中国本国より日本で愛された牧谿に近いとも思える。
 モネもほかの印象派の画家たちと同じように、浮世絵から構図を採ったりしているが、個人的に、モネは水墨画との近しさを感じるのだけれど。晩年の、まるで抽象画のような睡蓮までそう感じる。

 常設展に、山村耕花の《謡曲幻想 隅田川 田村》が出てました。

これは一見の価値ありだと思うんです。山村耕花は、新版画にも作品を残しているし、


もっと評価されてほしいなと思います。

『「右翼」の戦後史』

「右翼」の戦後史 (講談社現代新書)

「右翼」の戦後史 (講談社現代新書)

 小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』は、戦後20年あまりの日本の思想家たちを俯瞰し、余白ひとつ残すことなく、天球図のジグソーパズルを完成させたことで、戦後日本に思想家たちがいて、そこに思想があったことを明らかにした。
 キリスト教と古典古代という背景がなく、一方で、儒仏の教養を捨て去ってしまった近代以降の日本を対象に、思想のありようを俯瞰するについては、広範な知識と強靭な思考力が必要とされるはずで、こういう本は今後そう易々とは現れないだろうと思う。
 安田浩一の『右翼の戦後史』は、戦後の右翼について体系的に解説した本だが、右翼というものに、如何に「思想がないか」がわかる。
 個人的に、ずっと不審に思ってきたことのひとつに、そもそも日本に、右、左、というべき何かが存在しているのか?、という疑問があったが、この長年の疑問が(個人の感想ですが)、解消した。
 つまり、近代の日本、西欧の文明と交流し始めた日本に、民主主義、社会主義個人主義共産主義無政府主義、など、何でもいいんだが、そういう思想が流入し始めた。それに過剰反応したのが右翼なんであって、そういう新しい思想なら何でも、とりあえず「左翼」ということにして攻撃したにすぎないのだ。
 つまり、「右翼」は、そもそもリアクションにすぎなくて、彼ら自身の内側に自発的でオリジナルな発想があったわけではなかった。そして、「左翼」とは、「右翼」が何かしら拒絶反応を示すもの(何でもいいわけ、それこそ、ビートルズでも、朝鮮人でも)に仮想した存在にすぎなかった。
 ひらたく言えば、右翼は、何か知らないモノやコトを目にすると、不安で攻撃したくなるので、その攻撃対象を「左翼」と呼び、その攻撃の正当化も「左翼だから」で片付けていたというだけ。だから、思想なんかあるわけないのだ。
 つまり、日本の「右翼」は、「新しいことに拒絶反応を示す人たち」にすぎなくて、日本の「左翼」は、「右翼」が攻撃対象に選んだ人たちというだけ。だから、本人が左翼のつもりじゃなくても「左翼」になってしまうことがあるし、時には、右翼のつもりじゃなくても「右翼」にされているといったことも起きる。
 それで、個人的にずっと不思議だったもうひとつの疑問も解けた。それは、昭和天皇今上天皇靖国参拝を拒否してるのに、何で「右翼」(本来の「王党派」という立場であるなら)が、天皇の意向に逆らって、靖国参拝を至上命題のように崇め奉っているのかだが、何人かの「右翼」が公言して憚らないように、彼らは「天皇を利用している」のだ。
 靖国は、「右翼が天皇を政治的に利用するための暴力装置」なのだ。「右翼」は、靖国という暴力装置天皇というエンジンを積みさえすれば、彼らの悪魔が復活すると信じているカルトにすぎない。靖国という暴力装置は、やはり早く破壊したほうがよい。
 

『サバービコン』

 ジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演。
 この脚本はコーエン兄弟が1986年に書き上げたものの、そのままお蔵入りになっていたそうだから、30年も前の企画だったことになる。
 映画の時代は1959年に設定されている。舞台は、「サバービコン」という郊外の新興住宅地、架空の町だが、レヴィットタウンという実在した町がモデルになっている。白人しかいなかったその町に黒人一家が越して来た、その時に何が起こったかというと、その黒人の家を住民たちが取り囲み昼夜を問わず罵声を浴びせかけた。いわば、町全体が奈良の引越しおばさん(検索してみよう)だったわけで、これはたまったものではない。
 しかし、映画のプロットが、その事件を追っているのかというとそうじゃないのだ。
 マット,デイモンとジュリアン・ムーア夫婦の家がたまたまその黒人一家の隣だったというだけ。この設定が実によい。
 もう公開からだいぶ経っているので、書いても差し支えないだろう。マット・デイモンジュリアン・ムーアは保険金殺人に手を染めてしまう。
 可笑しいのは、黒人一家の家は、町中総出で24時間、監視している、そのざわついている隣の家に物取りが押入ったりするわけないんで、そのあたりからコーエン兄弟らしいシュールな展開になっていく。
 コーエン兄弟ジョージ・クルーニーといえば『バーン・アフター・リーディング』とか、『ヘイル、シーザー!』とか、シニカルな笑い。特に、ジョージ・クルーニーは、『ファミリー・ツリー』とか『マイレージ・マイライフ』とかも、笑わせにかかってると思うけど、あくまで個人の感想ですが、ジョージ・クルーニーのコミカルな演技はベタだと思う。『ヘイル、シーザー!』は良かったけど、『バーン・アフター・リーディング』はお勧めできないし、『マイレージ・マイライフ』はハマったけど、『ファミリー・ツリー』は、いかがなものかと思った。レンジが狭いというか、狂気が足りないというか。
 その点、今回は監督に徹して、マット・デイモンを主役に据えたのが奏功した。小学生のわが子を脅迫するなんて、マット・デイモンじゃなきゃ、いったい誰ができるんだろう?。
 この映画のユニークな点は、カメラの端に、実話に基づいたドキュメンタリーみたいなことが起こっているのに、カメラが狙っているのは、その隣の家の、トンマとしか言いようのない殺人事件だってこと。このふたつを、たぶん凡庸な脚本家なら、どこかで関連づけようと頭を絞るはず。でも、ホントに最後まで、ただ隣で騒いでるだけ。これは新しかった。
 55年ほど前を舞台にした30年ほど前の脚本が、今、なぜ陽の目を見るのかは、そりゃ、トランプ大統領の誕生と大いに関係があるだろう。でも、30年前にはこれが書かれてたってのは面白い。
 アメリカでの評価はあまり高くないそうなんだけど、おちょくられているように感じるのかもしれない。
 特に印象的だったのはテレビのリモコンだ。1959年には、可視光線を利用したテレビのリモコンがすでにあった。アメリカの豊かさは、すくなくとも、当時のアメリカ人が郊外の新興住宅地に夢見た豊かさは、そこに象徴されているように思った。

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北方領土問題解決に向けて日米露首脳会談しちゃえ

 安倍さんがトランプ大統領に「リメンバーパール・ハーバー」って言われて焦ってるらしいが、トランプさんの気持ちは分かる気がする。
 トランプさんはたびたび弾劾の噂が出るような薄氷を踏む状況で政権運営してるわけだから、同盟国の中でも長期政権の安倍さんは、ちょっと助け舟を出してあげてもよさそうなものだっつうわけ。
 トランプさんを悩ましているのは、ロシア疑惑なわけでしょう。一方、安倍さんはプーチンさんとウマが合うわけだから、米露の仲を取り持つくらいのそぶりは見せてもいいでしょうに。
 現に、米露の友好は、日本の安全保障にとっても死活問題なんだし、トランプさんとプーチンさんは、個人的にはウマが合うんだから、米露の友好関係を築くためには、いい環境にあるわけです。
 ロシアが、もし仮に、アメリカ大統領選挙の時にフェイクニュースを流してたとしても、実際に投票したのはアメリカ国民であるには違いないんで、「ロシアがフェイクニュースを流した」から「トランプ大統領が誕生した」は論理が飛躍しすぎているわけです。
 トランプ氏はプーチン氏との会見で、大統領選に介入したのが「ロシアだという理由は見当たらない」とFBIの意見と食い違う発言をして物議を醸した。
 でも、「介入」っても、投票箱の中に手を突っ込んだわけじゃないじゃないですか?。プーチンがヒラリーの悪口を言いふらしたから、アメリカ国民がトランプ氏に投票したって言ってるなら、ちょっと国民を馬鹿にしてるよね。
 そういう官僚政治に嫌気がさしたからこそ、トランプ大統領が票を集めたんですよね。
 だから、FBIが何を言おうが、トランプ大統領は泰然として米ロの友好を進めていくべきだと思う。 
 で、そうなっら面白くないのは、自分たちの存在意義が脅かされるCIAや国防省なわけじゃないですか。それを考えれば、からくりは見えてくる。だから、トランプ大統領は、そのへんぶっちゃけちゃってもいい立場とは思うのだけれど、それは、けっこう一か八かじゃないですか?。
 なんで、そこは、安倍さんが間に入って、米ロ首脳会談なんかを北海道あたりで主催するとかさ、それは、北方領土問題なんかを表向きの議題にしてもできるわけじゃないですか?。
 北方領土問題を、トランプさん、プーチンさん、安倍さんで解決しました、少なくとも、道筋をつけましたってなったら、3人ともにとって、大きな得点になるわけじゃないですか。
 北方領土なんて、あんな島、ロシアも日本も、あってもなくても実質、何にも困らないものを、面子だけで、引っ張りあってるんだから、2島返還でも、金銭トレードでもいいから、政治ショーとして利用しなさいよ。それが一番いい利用法だと思いますけどね。
 おそらく、ショーアップ次第では、ロシア疑惑なんか吹き飛ぶと思いますね。それは、トランプ大統領からは動けないわけだから、安倍さんが、リーダーシップを発揮して動いてほしいわけですよ。
 安倍さん、トランプさん、プーチンさん、仲がいいわけだから、そこは、トップ会談で、FBIなんか押さえ込んでもいいわけですよ。
 北方領土は、今切るべきカードだと思いますけどね。