『名探偵ピカチュウ』は『TED』だと思って観に行こう

 読みかけていた『合本 昭和天皇』を読み終えるのに午前中を費やしてしまい、予定を変更して、近場で映画を観に行った。ちなみに、故・米原万里って「一日平均7冊」本を読んでいたそうです。速読ができたんでしょうね。

ハリウッド版『名探偵ピカチュウ』。これは、ピカチュウがカワイイんだけど、そのカワイさはちょっとくせ者。ピカチュウモーションキャプチャーで演じているのは、『デッドプール』のライアン・レイノルズなんですよ。

theriver.jp

 『TED』ってセス・マクファーレンの映画、憶えてます?。今度のハリウッド版ピカチュウのカワイさは、あのTEDのカワイさに負けてない。中身はデッドプールなんだし。うっかりお子様同伴で観に行くと、大人の階段を上るでしょうね。ぜひ観に行ってください。



 渡辺謙ビル・ナイといったところが、脇をくすぐっています。ビル・ナイは『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』もよかったですけど、『人生はシネマティック!』が私はオススメです。ダンケルクの外伝ってところか。


 

東京都庭園美術館でキスリング展

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 改元を記念してというわけではないけれど、旧朝香宮邸である東京都庭園美術館にキスリング展に。正直言うと、キスリングなら、GWだろうがたぶん混まないだろうと思っただけ。
 藤田嗣治、ジュール・パスキン、マリー・ローランサンアメデオ・モディリアーニ、とか、エコール・ド・パリの絵描きさんたちは、裸婦の絵を舞台に腕を競った。
 異邦人の画家たちには、目の前のモデルをどう描くかしかなかったし、それが絵だということを疑う必要もなかった。それぞれの画家の裸婦の美しさもたしかにそうだけれど、その辺の単純さが、なんか今っぽくなくていい。
 
 東京都庭園美術館の洗練された内装を見ながら、哀しげな気持ちになる。

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朝香宮

というのも、いま、福田和也の『昭和天皇』を読んでるところ。これは、ホントに改元を機に読んでみているのだが、五・一五とか、二・二六とかのテロのようすがあまりに凄惨、そして、あまりに愚かしく、情けなくなってくる。第一次大戦後、世界の五大国のひとつであった日本が、落ちるところまで落ちたのである。
 吉田健一も、書いていたけれど、二・二六事件のとき、昭和天皇自らが陣頭指揮をとって、これを制圧したとき、学生たちは快哉を叫んでいたそうだ。
 にもかかわらず、二・二六事件の後も、陸軍は焼け太りするばかりだった。魚住昭が、太平洋戦争を軍の暴走で片付けてよいのか、みたいなことを書いていたが、片付けるかどうかはともかく、軍の暴走と言うのが、ひとまず適当だと思うが、どうなんだろうか。
 そもそも、中国での戦争は、陸軍がなし崩しに始めたのであって、天皇も政府も国会も承認していない。軍がなし崩しに始めた戦争が既成事実化し、国を泥沼に引き摺り込んで行った。
 福島菊次郎が「天皇の戦争責任展」という写真展を展開していたことがあった。福島菊次郎の三里塚の写真や、ウーマンリブの写真は好きだが、この世代の人たちのいう「天皇の戦争責任」論は、私にはピンとこない。公平に観て、昭和天皇はあらゆる局面で戦争を回避させようとしている。二・二六事件や五一五事件は、「君側の奸」を討つと言いながら、その実は、天皇に対する軍の脅しだった。
 その、クーデターを起こした兵士たちを英雄視し、助命嘆願書を出して、軍をつけあがらせた国民の方が、「戦争責任」という意味では重いと思える。兵として参戦した福島菊次郎が、天皇の戦争責任を言う資格があるのか疑問に思う。

 それにしても、おそろしいのはデフレ経済で、浜口雄幸の金融政策の失政が、軍の暴走を招いた遠因だと言えそう。この10月にまた消費税を上げるそうだが、デフレスパイラルのヒキガネにならないとは到底思えないのだが、誰が喜ぶんだろうか?。

『主戦場』みました 補遺

 映画『主戦場』について書いた時、参照していた記事は、ニューズウィーク日本版とAERAのものだけで、以下の毎日新聞のインタビューに気がついてなかった。それで、ちょっと更新てみたけれど、しきれない分を新たに書くことにした。ちなみに、毎日新聞の記事によると、秦郁彦氏のインタビューがないのは、何度かのやりとりの後に、断られたからだそうだ。やはり、あの部分が気にかかるのは私だけではなかったみたい。

mainichi.jp

 日系アメリカ人が、インタビューだけで慰安婦問題を切り取るって映画の撮り方は、本質的な部分で興味深く、少々のキズはあっても観る価値があるには違いない。
 ただ、これは繰り返しになるけれど、最後まで公平なスタンスを貫いたほうが、映画としても、問題提起としても、もっと力を持てただろうと思う。
 上の毎日新聞の記事を読むまで気がつかなかったが、「歴史修正主義者」とかテロップを入れちゃダメ。それをやると映画の公平性にキズがつくんです。なんで、そういうことするかな?。
 それから、秦郁彦に断られたのは仕方ないとして、西岡力には、「他の人と言ってることが一緒だからやめた」って、それもダメ。

 上の二点は、突っ込もうと思えば突っ込めるって脇の甘さだが、インタビューを読みながら、ハタと気がついたのは、ミキ・デザキは、日系アメリカ人なのに、同じく日系アメリカ人で、グレンデール慰安婦像設置に反対した人たちのインタビューを取ってないね。

 よく考えると、この点は、上の二点よりさらに大きな欠点であるかもしれない。自分が帰属するコミュニティーには、インタビューすらしないってのは、いただけないかも。結局、上から目線で他人事に口を出してるにすぎないってことだから。

 しかし、この前の記事でも書いたように、そういうキズがありつつも、これに関わっている人たちのグロテスクさを浮き彫りにしているって点で、観る価値がある。だからこそ、小さな瑕疵が残念なんだが。

 後半、慰安婦問題から、日本会議に焦点がズレていく(あるいは、焦点が合ってくる)のだけれど、彼らが日本の宿痾であることがよくわかる。それを視覚化したことに、むしろ価値があるというべきかもしれない。が、結果として、慰安婦問題をめぐる議論の焦点はぼやけた。

 ところで、杉田水脈など、なかなかのもの凄まじい発言が刺激的なせいで、「極右のトンデモ発言満載」みたいな観方をしているレビューもあるが、対する左側も、たとえば、朝日新聞が記事を撤回した今だからまあいいやということになるが、「20万人」の根拠について、「女たちの戦争と平和資料館」の渡辺美奈が、その算出根拠を語っている部分には唖然とした。「20万人」は彼女の推測に過ぎなかったようである。そういうのって推測で言うべきことなんだろうか。

 こんな具合に、公平な視点で見ると、かなり笑える。安倍首相も含めて、全員がちょっとずつどこかおかしい。しかし、そのおかしさには、それぞれに背景があるってことが、ほの見えるところもある。惜しむらく、ミキ・デザキ監督が日系アメリカ人に、つまり、自分自身が帰属する社会にまでカメラを向ける勇気を持っていたら、それはもっと深いところまで踏み込めたはずなんじゃないかと想像する。もっと上質な笑いになっていたんじゃないかと思う。

 ところで、シアター・イメージ・フォーラムは、いつのまにかネットで予約できるようになっている。むかしは、あそこはたどり着いたら大行列ってことがよくあって、何となく足が遠のいていた。ネットで席が確保できれば、遠方からでも気軽に来やすい。

『主戦場』みました

 Miki Dezakiという日系アメリカ人が慰安婦問題について撮ったドキュメンタリー映画『主戦場』を観た。
 日系アメリカ人という立ち位置は、この問題を映画にするのに、最適とまで言わないにしても、日本人のだれそれ、韓国人の誰それが撮るよりは、はるかにバイアスのかからない視点が期待できる。
 現に、論旨がまとまっていて見やすかった。その見やすさが、ドキュメンタリー映画としては、価値を減じているかもしれない。それは、先日、『盆唄』について書いたことと同じで、やはり、ドキュメンタリー映画は、フレデリック・ワイズマンの『in Jackson Heights』のように、極力、主観を排したほうがよいと思う。マイケル・ムーアがその真逆をやってスタイルを確立したけれど、あれは、マイケル・ムーアというキャラクターが映像の中で道化を演じるからこそ成立するので、もしそうでなければ(ということを言っても仕方がないけれども)、あれは低級なプロパガンダと呼ばれるだろう。
 いいかえれば、アメリカ社会で公然と行われているプロパガンダアメリカ人自身が百も承知、かあるいは、薄々そう思っているという状況があってこそ、そのプロパガンダにカウンターを当てる、マイケル・ムーアという個人の反プロパガンダが痛快なのである。
 その意味では、今回のDezaki監督のやりかたはすれすれの危ういやり方だったと思う。わたしとしては、すべてがバストショットのインタビューだけで構成されている、くらいの突っ放し方の方が、もっと響いただろうと思う。やや、まとめすぎていると感じた。
 にもかかわらず、やはり、最初に書いたように、日系アメリカ人という立ち位置が、小さな傷を救っている。観る価値のある映画だと思う。
 私が不満に思った点をいくつかあげておく。
 いちばんひっかかった問題点は、韓国挺身隊問題対策協議会のユン・ミヒャンが「日本は謝罪していない」と発言したのに対して、「いや、日本は何度も謝罪している」と反駁をくわえたのは当然として、しかし、韓国人が、日本人が謝罪していないと感じるのは、謝罪した後から、日本人が、それをひっくり返すからだとして、議員の靖国参拝を上げている点。この点は、論旨が逸脱していると思えた。
 このブログの過去ログを読んでもらえばわかるが、私は、靖国には問題があると書いてきた。しかし、それは慰安婦とは何の関係もない。議員が靖国に参拝する、から、韓国人は日本人との合意を一方的に破棄していい、という理屈は、見過ごせないと思う。
 日本政府は、何度も謝罪している。のに、「日本人は謝罪していない」と挺対協の代表が言うのを、さらりとスルーするわけにはいかない。もし、日本人が慰安婦問題について冷淡になってきているとしたら、何度謝罪して、そして、何度合意に達しても、かれらが一方的に合意を破棄することを繰り返してきたからであって、先日、韓国の文喜相国会議長が「天皇に謝らせろ」みたいな発言をした時も、怒るというより冷ややかな反応が支配的だったと私には思えた。
 日本政府は何度も謝罪した。そして何度も合意に達した。にもかかわらず、韓国側は、何度も、その合意を一方的に破棄した。そして、今、「日本人は反省しない」とか言っているのだが、これは、誠意のある態度なんだろうか?。
 もう一点は、この問題が、人権問題に事寄せた日本人に対するヘイトではないのかという点について、Dezaki監督は、ソウルの慰安婦像の前のデモについて「もっとヘイトな雰囲気を想像していた」と言っているが、それは、最初に書いたが、Dezaki監督が日本人ではないということを、故意にではないにせよ、無視している。もし彼が、日本人の映像作家としてそこに現れた時、同じように感じるかどうかはわからないし、韓国人が同じような態度かどうかもわからない。
 加えて、グレンデール慰安婦像を設置した韓国系の活動家フィリス・キムが、裁判では、「なぜ慰安婦像を設置することがヘイトなのか?」と発言していたにもかかわらず、インタビューでは「中には日本人に対してヘイトの感情を抱いているものもいる」と認めている。私にはこれは重大な矛盾だと思える。なぜなら、どんな行為でも、ヘイトの意思でやっているなら、それがヘイトであるのは言うまでもない。「日本人に対する憎悪」から慰安婦像を建てているなら、その行為はヘイトなのである。たとえば、フィリス・キムの言い方を借りて、「なぜ指で目尻を釣り上げる行為がヘイトなのか?」と、いけしゃあしゃあと尋ねたとしよう。答えは簡単だ。そこにヘイトの意思があるからヘイトなのである。
 この活動家フィリス・キムは続けて「しかし、それ(韓国人の日本人に対するヘイト行為)は慰安婦の受けた被害に比べればちいさなものだ」と言っている。いったんは正しいように思える。しかし、その理屈は、「慰安婦の中には強制されたものもいる。だが、それは一部だ」という右派の理屈とどう違うのか?。
 そして、この点に関して、もっとも重要だと思うのは、韓国人が日本人に対して行っているヘイトは、今、現に行われているヘイトだということだ。韓国人の活動家の中に「日本人に対するヘイトからそれを行っているものがいるのは確か(と、そう発言したと思うが)」なら、それは今まさに行われているヘイトなのである。80年前の戦争中の話ではないのだ。
 グレンデールのスピーチで、「私たちは戦場でのレイプがなくなるまでこれをやめません」と言っているひとがいたが、ベトナム戦争は第二次大戦のあとなので、戦場でのレイプを繰り返したのは、韓国人であり、アメリカ人なのである。この点についても、ベトナム戦争慰安所を作った韓国の軍人は、旧日本軍の幹部だったから、韓国の慰安所も日本軍に責任の一端があると言った日本の歴史家がいたのだが、その矛盾に気が付かないのに驚くのだけれど、だったら、第二次大戦中の慰安所についても、韓国人にも責任の一端があることになってしまう。慰安婦にも日本人も韓国人もいて、軍部にも日本人も韓国人もいたのに、なぜ、可哀そうな慰安婦は韓国人、悪い軍人は日本人ということになるのか?。とりもなおさず、それがヘイトなのである。違うだろうか?。
 最後にもう一つ、これは、ちいさな疑問なんだが、インタビューの中で何度か「秦郁彦」についての言及があるにもかかわらず、なぜ、秦郁彦氏自身にインタビューしていないのかに首を傾げた。秦郁彦済州島に実地調査に赴き、吉田証言のウソを暴いた。このことがのちの朝日新聞の記事の撤回につながったのであり、故人というわけでもなく、また、何度か言及されているのに、インタビューも、証言映像もないのはフェアでないように思えた。何か事情があったのかもしれない。
 ちなみに安倍総理にもインタビューはしていないが、これは国会での答弁の映像がある。例の「狭義の強制性」についての発言だが、それを受けて「狭義の強制性がないから罪がないとはならない」と「女たちの戦争と平和資料館」の渡辺美奈が言っていたが、何度も謝罪しているのだから「罪がない」と言っているはずがない。「狭義の強制性」とは、ありていにいえば吉田証言のことであって、トラックで若い女性を狩り集めたといったことはウソだといっているにすぎない。現にウソだったんだから、これは、慰安婦をめぐる証言のまぎれもないウソの一例なのである。ウソをウソだと言ってなぜ非難されるのか。つまり、慰安婦は、一ミリのウソもない存在として、もはや聖性を帯びてしまっている。これは、フェミニズムが男女が逆転した性差別にすぎない証明でもあるだろう。
 慰安婦の証言について、昔のことだから、記憶があいまいになるのは仕方がないについて、何の異論もない。しかし、日本政府にかぎらず、政府が公式に謝罪するについて、二転三転するあいまいな証言に対して謝罪できるかどうかをかんがえてもらいたい。アメリカ政府なら謝罪するだろうか?。にもかかわらず、日本政府は謝罪しているわけだし、謝罪すべきだと思うが、韓国側が、勝手にその合意を反故にしたのではなかったか。それについても日本の責任なんだろうか?。
 というわけで、私の中では、この結論はやはり出てしまっていて、第二次大戦中の慰安婦の存在は、もちろん重大な人権侵害なのであるが、それは、大日本帝国の軍部がやったこと。あの連中は、自国の若者を爆弾を積んだ飛行機に乗せて敵艦に突っ込ませていたのである。レイプぐらいなんでもなかったろうことは容易に想像がつく。そして、その連中はもうとっくに縛り首で死んだ。
 だが、いま、韓国と日本のあいだで問題になっている「慰安婦問題」はそれとはほぼ関係がなく、単に、韓国人の日本人に対するヘイト行為にすぎない。
 俯瞰してみれば、この慰安婦問題と同じ時期に「日本海を東海と呼べ」とか「日章旗を使うな」とか「日章旗に似た横尾忠則の絵を撤去しろ」とか、韓国人、あるいは、韓国系アメリカ人からの要求が矢継ぎ早に行われている。「日本海を東海と呼ぶ」ことが人権と何か関係があるか?。これは歴然と差別なのである。韓国が経済的に発展する一方で、日本は経済政策の失敗で没落していく、そして、韓国人は日本人に復讐心を抱いている。という構造があるかぎり、そこに何が起こるかわからない方がどうかしている。慰安婦は差別の依り代にされているだけだ。日本からの賠償金を受け取った元慰安婦は、韓国人からバッシングされるのだ。被害者をバッシングするのはセカンドレイプではないのか?。
 どんな差別も正義の名の下でおこなわれる。その正義がこのばあい「慰安婦」の姿をしているというだけである。
 AERAのインタビューによると

日系米国人の私は、同じマイノリティーである黒人やヒスパニックからも差別を受けるマイノリティー中のマイノリティーでした」
 当時、アジア人差別は他のマイノリティーへのそれと比べ、メディアにも十分に認知されていなかった。それはデザキさんにとって二重の苦しみとなった

ということだそうだ。だとすれば、いま、私たちが目の前にしている韓国人の日本人に対するヘイトも、それが世界に認知されていないかぎり、これから長く人を傷つけることになるだろうと思う。おそらく、より大きな災厄につながるだろう。
dot.asahi.com

『盆唄』

 中江裕司監督の撮ったドキュメンタリー映画『盆唄』は、福島第二原発の事故でいまだに立ち入り制限区域となっている双葉町で、コミュニティーが喪失したことで、途絶しかかっている「盆唄」の歌と踊りを何とか生きながらえさせようと活動をはじめたひとたちを追っている。
 震災直後は、盆踊りどころではなかったのだろうと思う。現に、主人公のひとりは東京電力に勤めていた人で、原発事故直後は、かなり風当たりがきつかったと語っていた。
 でも、それから月日が流れて、自分たちの町がゴーストタウンになっていて、自分が生きている間に帰れるかどうかわからない、というときに、「あの盆踊りがなくなっちゃうのは寂しいな」と思える、自分の根っこがそこにあると思える感覚があるについては、個人的にはうらやましいと思った。
 私が今住んでいるここでも、盆踊りみたいなことが幼稚園のグランドでやっているのを見たことがあるが、そういうのを見ても、なつかしさどころか、疎外感しか感じない。それは、たんにここが地元でないからだけでなく、そういう行事が連想させる、前近代的な「ムラ社会」のイメージに反射的に拒否反応を覚えてしまうからだろうと思う。
 そしてもう一点は、戦後開発された新興住宅街で行われているそうした行事には住民が愛着を覚えるほどの伝統はないのだし、だいいち、住民自身、その子供たちは、またどこか違う町で暮らし始めるのがフツーであるかぎり、そもそもその土地にコミュニティーを作る意識が希薄で、役場や自治会のお仕着せの盆踊りは、しらじらしいものにならざるえない。

 しかし、双葉町の盆唄はそういったものではなかったらしい。町に十数の連があり、それぞれの連が町を踊り歩き、最後に、やぐらのもとに集まっていっせいに踊る盛大なものだったそうだ。
 そうしたかつての賑わいの写真をみたとき、どこか富山の八尾のおわら風の盆に似ているなと思ったのだけれど、どうも、富山からの入植者によって伝えられたともいわれているらしい。
 原発の町というイメージの双葉町にそういう伝統があったことが意外だった。

 映画のもうひとつの軸は、岩根愛という写真家が、ハワイの日系文化を取材するうちに、ハワイで今も踊られている「ボンダンス」のルーツが福島の「相馬盆唄」であることを発見したことから、おそらく、避難民の方たちが生きている間には復活させることができないだろう、双葉町の盆唄を、ハワイで歌い継いでもらおうと活動し始める。
 ちなみに岩根愛は、ハワイのボンダンスを撮った『KIPUKA』で第44回木村伊兵衛賞を獲得した。

岩根愛写真集 KIPUKA

岩根愛写真集 KIPUKA


 このハワイで踊られているボンダンスが魅力的だった。オープンで明るい。それは、移民の人たちが自分たちの文化を保とうとする思いの強さと、結局、彼ら自身も移民である白人の人たちが、他者の文化に対して示す自然なリスペクトの態度が、不思議だけどこういうしかない、なつかしかった。

 自分がいつ自分のコミュニティーを喪失したのかもうおぼえてすらいない。それどころか、もしかしたら、生まれた時からすでにそんなものはなかったのかもしれない。その意味では、ハワイで生まれた日系人たちとほとんど同じなのかもしれない。そんななかで、自分たちのルーツを見つめていようとする、人とのつながりへの思いが、結局それがなつかしいんだと思う。

 はてなブックマークですこしバズった記事に、「公共交通機関で席を譲らない日本人」という記事があった。賛同や反論がいろいろあったのだが、たしかに、事実として、日本人はあまり席を譲らなくなったと思う。わたしはお年寄りには席を譲ることにしているが、これはまあ、腰を痛めているために、長時間座っているとかえって痛いせいなのだが、それでも、お年寄りから断られることが多くなったと感じている。お年寄りの方でも、ホントに、譲ってほしくなさそうにみえる。断るのが申し訳ないので座るって感じ。
 いろいろな意見があったけど、わたしとしては、日本人の横のつながりが極端に希薄になっているのだと思う。電車の例でいえば、そこにあるのは、鉄道会社と乗客の縦の関係だけで、乗客同士の横の関係は意識にないのではないか。だから、鉄道会社のミスでダイヤが乱れたり、乗務員の態度が悪いと不快になっても、乗客同士が席を譲ったり、話しかけたりするのは、気持ち悪いんじゃないかと思うがどうだろうか。

 最近、極右的な言動を示す人が多いというようなことについても、個人と国家のあいだにかつてはあったコミュニティーの意識が失われて、意識のバランスが取れないからではないかと思う。意識の中で、個人と国家が直接むすびついてしまっているのだ。
 たぶん、横のつながりも縦のつながりも虚構にすぎない。そうだとしても、そのバランスをとることは抑止力として重要なんだと思う。

 この映画は、しかし、ドキュメンタリーとして不満に思うのは、盆唄の由来を富山からの入植者を主人公にしたアニメで説明しているところ。アニメであっても、ドキュメンタリーの中に虚構を挟み込むと、とたんに力が弱くなる気がする。時間をかけて取材しているのだから、そこも今現在の富山の盆唄に取材するだけでよかったと思う。ルーツを富山に探るシーンはあるのだし。ハワイでの昔のサトウキビ収穫シーンの再現もない方がよかった気がする。
 
 そういいつつ思い出すのは、フレデリック・ワイズマンの『ジャクソンハイツへようこそ』で、説明的なシーンは一切入らないので、事実関係でちょっと混乱するところはあったが、ただ、ドキュメンタリーはあの方が正しいと思う。

箱根彫刻の森美術館の桜

 朝、ウェザーニュースを見ると、快晴になっていたので、衝動的に箱根に出かけた。ウェザーニュースには珍しく、曇ったり晴れたりで、快晴とは言えなかった。山の天気はむずかしいということなんだろう。
 ただ、彫刻の森美術館の桜は見ごろ。

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彫刻の森の桜

 箱根は紅葉の頃ともなると、箱根湯本から先の登山列車は、何本かやり過ごさなければならないほどの大混雑なのに、なぜか桜のころはさほどでもない。これはたぶん、平地の桜の盛りがすぎたあと、それも一週間以上あとに見ごろを迎えるために、いまさら桜でもないって人が多いせいなのかもしれない。
 それともう一点は、そりゃ、どんちゃん騒ぎはできませんよ、野外とはいえ、美術館なので。
 でも、ただ花を愛でようということなら、ここは最高ですよ。

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ブールデルの彫刻と桜
 
 ここに来るたびに思い出すんだけど、バカリズムがテレビで「深夜にやってる箱根彫刻の森美術館のCMが何のことかわからん」と言っていた。もっともなんだけど、これはフジサンケイグループの持ち物なので、そのCMは税金対策なのである、たぶん。
 それと、ここはたぶん日本より海外に有名なんじゃないだろうか。ほんとに外人さん比率が高い。

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彫刻の森の外人さん

 テレビで思い出したけど、こないだバナナマンの「せっかくグルメ」で、日村さんが釧路に行ってたの観てたら、幣舞橋に、舟越保武の≪道東の春≫が設置されていた。わたしは彫刻の森でしかしらなかったのでびっくり。なんでも「道東の四季」ということで、舟越保武佐藤忠良、柳原義達、本郷新作の四人が、春、夏、秋、冬の像を、この橋のために造ったのだそうだ。

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舟越保武≪道東の春≫

 そういえば、ブールデルの

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ブールデル≪弓をひくヘラクレス

のこれは、上野の国立西洋美術館にもあります。

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ブールデル≪弓をひくヘラクレス

 先ほどのブールデルなんて来るたびに観ているのに、野外彫刻のよいところは、ほかの美術館だと常設展は、展示替えがない限り、一回見ればいいかとなりがちなところを、野外展示だと、同じように桜の季節に来てさえ、天気や時間帯でまったく感じ方が違ってくることだ。
 このフランチェスコメッシーナの⦅エヴァ⦆は、好きな作品で、何度も観ているのだけど、非常にうかつなことながら、今回初めて、このエヴァが妊娠してることに気づいた。

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フランチェスコメッシーナエヴァ

 いまさら何言ってんだってことなんだろうけれど、ほんとだからしょうがない。

 彫刻の森にはニキ・ド・サンファルの作品が一点だけあるが、
 
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彼女の作品の野外展示ということでいうと、トスカーナのタロット・ガーデンは、彼女の作品の野外展示というより、彼女の作品そのもの。簡単にいけるところではないが、機会があれば訪ねる価値はある。

箱根ラリック美術館のサラ・ベルナール

 箱根ラリック美術館の「サラ・ベルナールの世界展」を口実にして、箱根にでかけたのだった。サラ・ベルナール展に関しては、何もそんなに遠出しなくても、横須賀美術館にも、松涛美術館にも巡回するらしかった。ただ、ラリック美術館が所蔵するルネ・ラリックの作品とともに、彼を世に出したサラ・ベルナールを見られるというのはいい取り合わせとはいえると思う。

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サラ・ベルナールのカードの習作 アルフォンス・ミュシャ

 サラ・ベルナールアルフォンス・ミュシャアール・ヌーヴォーはほとんどセットみたいなもんだから、もちろんほかの有名なポスターも展示されていたけれど、こういう習作の方がレアかなと。

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舞台用冠「ユリ」

 これは、サラ・ベルナールの舞台のために、アルフォンス・ミュシャが原案を描き、ルネ・ラリックが作ったものだそうです。

 私は、これはたびたび書いた気がするが、2009年の秋に世田谷美術館で開催された「オルセー美術館展 パリのアール・ヌーヴォー ―19世紀末の華麗な技と工芸―」で、「サラ・ベルナールの椅子」を観た。これは、何といったらいいか、たとえて言うと、ゲームとかアニメのラスボスが座るような椅子をフランスのトップメーカーが採算を度外視して実物にした椅子を想像しても、たぶんそのスケールをはるかに超えると思う。
 もちろん、展覧会の展示品なので、「お手を触れないでください」となっているのだが、「さわってもいいですよ」と書いていても、おそれおおくて誰も手を出せなかったと思う。わたしは見た瞬間に笑ってしまいました。すごすぎるものを見ると人間は笑うね。
 あの椅子をもう一回見たいと思っているが、今のところ再会していない。ただ、サラ・ベルナールという女優がただものではないということだけは心に刻んだ。あのときのブログを見ると、ルネ・ラリックの≪芥子の髪飾り≫も展示されていたようだが、「ゴージャスすぎて誰の髪も飾ったことがない」と書いてある。
 しかし、にもかかわらず、ルネ・ラリックの香水瓶は、それまで富裕層に限られていた香水の楽しみを、小分けにして売ることで、一般に手に入りやすくしたのでもあるそうだ。

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ルネ・ラリックの香水瓶

 つまり、このゴージャスさはゴージャスさのイメージにすぎない。それ以来、わたしたちはほとんどのものをイメージで判断するようになった。

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ペンダント/ブローチ≪冬景色≫


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彫像「ガラテ」1925年のパリ万博における≪フランスの水源≫の一部
 
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花器≪バッカスの巫女たち≫1927 オパルセントガラス