「電人ザボーガー」

knockeye2011-10-15

 この秋、邦画最大の話題作「電人ザボーガー」を観た。
井口昇監督作品 『電人ザボーガー』公式サイト 井口昇監督作品 『電人ザボーガー』公式サイト 井口昇監督作品 『電人ザボーガー』公式サイト
 エグゼクティブプロデューサーの大月俊倫によると、この映画は

クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」に着想を得た

のだそうだ。パンフレットを読みながら吹き出してしまった、楽しくて。
 つまり、あの‘マシーン・ザボーガー’は、72年製フォード‘グラン・トリノ’であり、板尾創路の元刑事・大門豊は、クリント・イーストウッドが演じた朝鮮戦争の帰還兵だというわけ。
 そして、この映画全体が、「グラン・トリノ」に対する‘アンサー・ムービー’になっているのだとしたら、これはかなり深い話になってくる。そして、たしかに、そう読み解くこともできる。家族について、正義について、戦争について、時代について・・・。
 しかし、それは飽くまで帰りの電車のなかでの話であって、映画を観ているときにそんなことを考えているいとまはない。
 三池崇史監督の「ヤッターマン」を思い起こさせる、小気味よいテンポと、細部にまで抜かりのない原作へのオマージュ。山崎真美の‘ミスボーグ’も、深田恭子ドロンジョに引けをとらない色っぽさだ。
 また、「キックアス」や「魔法使いの弟子」のニコラス・ケイジのように、柄本明竹中直人渡辺裕之といったベテラン俳優が、本気の快演を披露している。
 パンフレットによると、最初に配役が決まったのは柄本明の悪ノ宮博士で、ファーストカットは大魔城の中で笑うシーンだったそうだが、

・・・リハーサルで柄本氏がオーバーアクション気味にこのシーンを演じたのを見た監督は、ベテランを相手にやや躊躇しながらも「もう少しナチュラルな芝居でお願いします」と提言。すると柄本氏は「僕もそう思います」といい、その通りの芝居を演じたという。
 監督は「最初の仕事なのできっとこれは柄本さんから試されているんだろうなと思い、自分の思っていることを正直に伝えました」とこの時のことを振り返っている。

 そして、板尾創路がいい。たぶん、オンとオフというか、虚と実というか、そういうことの切り替えの回路が普通の人と違うのだと思う。語弊を懼れずにいえば、普通の人より、極端に誠実だといえるのかもしれない。
 来年の正月には監督第二作、「月光ノ仮面」が公開される。江戸落語の「粗忽長屋」を底本にした、終戦直後の復員兵の話らしい。これも楽しみだ。
 それで、もういちど「グラン・トリノ」との比較の話にもどってみたいのだが、あのグラン・トリノが72年製、そして、マシーン・ザボーガーは、それが放映された年の製造だとすれば、1974年製造になる。
 70年代から80年代、ことに70年代は、日本とアメリカが価値観を共有していた時代だと、今となっては、そういえるだろう。日本は、朝鮮戦争ベトナム戦争を、沖縄の基地を提供することで支えた。
 日米欧は繁栄を分かち合ったし、繁栄は勝利の結果であり、勝利の裏付けとして正義はあった。いいかえれば、正義は暴力の正当化だった。暴力がなければ、だれも正義について考えない。正義を考えることは、戦略を練ることと同義なのだろう。戦う意志があるものだけが正義について考える。
 正義に切なさが伴うとすれば、それは暴力による痛みだし、正義に美しさが伴うとすれば、それは暴力の勝利である。
 暴力について考えずに、正義について考えることは、まったくの机上の空論だ。正義について、本当に考え続けたのは、マイケル・サンデルではなく、ピー・プロダクションであり、そして、テレビで「電人ザボーガー」を見て得た教訓を、教室で実践しようとして、挫折を味わっただろう子どもたちだと言えるかもしれない。
 マシーン・ザボーガーやグラン・トリノなどの機械が美しいのは、正義と暴力の二面性を同時に表現しているからだ、しかも、無言で、言い逃れしようもなく。この映画が、機械についての映画だとしたら、そういう機械についての映画なのだ。