朝鮮陶磁名品展

knockeye2011-10-16

 日曜日はすばらしい秋晴れ。これをはたして秋晴れというのかというほど。ジャケットの下がたまたま半袖でよかった。
 お天気に誘われてなので、静嘉堂文庫美術館にした。朝鮮陶磁名品展。

 ポスターに使われているのは、高麗時代、12世紀後半〜13世紀の<青磁象嵌葡萄文瓢形水注>。
 この写真では少しわかりにくいけれど、実物はもっと淡い緑色。北宋時代のものの本によると、高麗青磁の色を、当時の高麗の人たちは、‘翡色’と呼んだそう。かわせみの羽の澄んだ青色を意味するそうだ。
 もしカワセミというなら、もっとシンプルな造形の<青磁梅瓶>のその釉溜まり、緑色の中に差している水色は、たしかにそれを思わせた。



 ↑これは<青磁象嵌菊花文瓢形小瓶>、高さ11.5cmしかない。

 ↑これはもっと小さい高さ5.6cm。<青磁象嵌雲鶴文小壺>。「雲鶴文って?」と思うかもだけど、真ん中に小さい鶴がいて、これは、図録の写真を写したものなので、印刷のドットに紛れてしまってるけど、目もくちばしもちゃんとある。
 連れの人とささやきあう言葉でわかったのだけれど、韓国の若い人が来てた。韓国でも、最近、井戸茶碗のような古い器が好まれはじめているとも小耳に挟んだ。井戸茶碗なんて、あんなの韓国にはそのへんにいくらでもあるんだけど・・・みたいなことを、ユン・ソナが言ってた。あの人たちも「こんなのうちにあるけどな」みたいなことを言ってたのかな。
 その井戸茶碗<越後>が展示されていたが、それでも、これはやはりよい。

 これと同じものが千個あってもよいだろうか?と自問してみたが、よいと思う。その意味では、これをお茶に用いた千利休の美意識は、マルセル・デュシャンよりはるかに洗練された‘レディメイド’だったと言えるのかもしれない。しかし、レディメイドは文字通り‘すでにできあがっているもの’じゃないとダメで、これをコピーして作っても価値がない。千利休も「侘びたるはよし、侘ばしたるは悪し」と言っている。
↓<堅手茶碗 銘 秋かぜ>

↓<玉子手茶碗 銘 小倉山>

このほかにも<刷毛目塩笥茶碗 銘 雪だるま>というのもあった。このあたりは12月までの展示なので季節を考えてのことだろう。
 塩笥茶碗というのは、口がすぼまっている。冬の茶事にお茶が冷めないようにとの工夫だそうだ。が、名前が仄めかすとおり、もともとが茶碗として作られたものではないわけだから、工夫というより趣向というべきか。
 先日のグェッリーノ・トラモンティにもティーセットがあった。そのティーセットのカップに、当然のようについているハンドルを見ながらつくづく思った。日本の茶碗にはハンドルがないが、手が熱いからといって、茶碗の美に利便性を優先することは、日本人には、思いもよらないことだろう。
 日本人は、茶碗を両手で抱いて、その重みと温もりをたしかめたい。それも含めての茶なのだ。ハンドルがある方が便利だろって、そういうことじゃないじゃない。井戸茶碗にハンドル付けちゃだめじゃない?
 しかしどうだろう。それは、いま私たちにとって、いかにも自明であるかのように、ほんとうに自明かというと、あやしい気がする。そのあたりの美意識は常にゆらぎ続けるのだと思う。そうしてすべてがゆらぎつづけるという認識があってこそ、たかが茶ごときが美でありえたはずだと思う。だからこそ、手に抱いてたしかめたくなる、茶碗の重みを。
 他にも、お茶の方で「三島」と呼ばれてきた粉青沙器や黒釉の壺や白磁器、華角張、鮫革張の箱などもあり、ちいさな展覧会ながら見応えがあった。
静嘉堂文庫美術館 静嘉堂文庫美術館 静嘉堂文庫美術館
 おとなりは岡本公園民家園というところ。この紅葉の頃に訪ねてもいいかも。