『神屋宗湛の残した日記』

knockeye2011-12-23

 今年は、東日本大震災の影響で(と、自分で思っているだけだが)、読書量が減った。来年はもう少し本を読もうと思う。

神屋宗湛の残した日記 (講談社文芸文庫)

神屋宗湛の残した日記 (講談社文芸文庫)

 単行本で初版されたのは、1995年。井伏鱒二が亡くなったのがその2年前の1993年。生前、単行本に収録されなかった最晩年の短編を集めている。
 巻末の解説によると、表題作は、四大茶会記のひとつといわれる『宗湛茶湯日記』を下敷きにしている。著者の生前最後の単行本『鞆ノ津茶会記』が成立した時点から振り返ると、そのスタディーのようにみえる。
 『宗湛茶会日記』という史料と、『鞆ノ津茶会記』というフィクションをつなぐラフスケッチの味わいがある。
『鞆ノ津茶会記』は、井伏鱒二自選全集の補巻に収録されていた。

 宗湛の文章を私は正確に記せないが、とにかく「落雁」の絵が床の間に掛けてあったことは確実である。
 その次の日、十七日の朝の茶会には、床の間に「瀟湘夜雨」の軸が掛かっていた。その前々日には、牧𧮾の「煙寺晩鐘」の絵があった。その日記を読む者は、宝の山に入ったようなものである。

 ‘「落雁」の絵’とは、先日まで出光美術館に展示されていた牧𧮾の「平沙落雁図」。「煙寺晩鐘」は先週まで畠山記念館に掛かっていた。
 実物を見ているせいか、‘宝の山に入ったようなもの’という、井伏鱒二の表現を誇張とは感じない。
 豊臣秀吉朝鮮出兵に絡んで暗躍する神屋宗湛を、井伏鱒二は‘死の商人’といっている。

とにかく宗湛は御餝が取片づけられて行く間に、御道具をいちいち懐紙に書留めた。おそらく傍から宗易か宗及の説明を受けながら筆記したのだろう。死の商人として関白秀吉に大歓待を受けている宗湛が、御道具に執着する当時の茶人の誇りを充たして、名画名器の名前を書いている。

 洗練の極致である茶の流行する一方で、切腹、鼻削ぎ耳削ぎ、キリシタン迫害など、有為転変が日常茶飯事の、対比の鋭さに、作家は心惹かれたのではないかと、解説は書いている。
 山田芳裕の「へうげもの」の世界と気配が通い合う。
 たかが茶入ひとつが、一国一城に値するとされた時代。一国一城の主といえども、時に利あらずば、往来に生首をさらすかもしれない時代には、国を手にするより、大名物の茶入ひとつを羨望した価値観は、今考えるよりはるかに切実なものだったろう。
 「へうげもの」が火付け役になった今の茶のブームも、世の中の価値がゆらいでいる証しなのかもしれない。

同十二日朝。
一、利休がお茶会を設けてくれた。客は宗湛、宗伝両人。
 深三畳半、四寸の囲炉裏に五徳を据え、釜は霰、姥口の鬼面。床の正面の柱に、白梅を活けた高麗筒を掛け、手水の間に(不明)橋立の大壺を置いて網に入れ、次の間の小棚の下に土の水差を置く。唐物である。御茶は尻のふくらんだ茶入に入れ、井戸茶碗に道具仕入れて。土の水覆、引切。

 橋立の大壺とあるのは、五島美術館に収蔵されている「横雲のふみ」付きのものだろう。
千利休はあの文の3週間後に切腹した。
 こんなことも書いてある。

信長は骨董を散じる効果を知っていた。天正五年十二月、「雁」の絵と共に松花の茶壺、藤波の壺、道三茶碗などを内裏へ献上し、摂関家を喜ばした。信長が安土城下を整備して、京洛に落着きが生まれかけていた頃である。ところが天正十六年には、松花の茶壺も「雁」の絵も、どんな経路を辿ったか秀吉の所持する品になっていた。

また

信長が本能寺で自害したのは天正十年六月であった。秀吉は天正十年六月、初めて大坂に入り、七月二日に開いた城中での茶湯の会に「晩鐘」の絵を展示した。かつての信長所持の名品は秀吉の秘蔵品になっていた。

 「へうげもの」では、秀吉が信長を斬る。本能寺の変については、しかし、いまだに謎が多いようである。
 ちなみに、神屋宗湛はまだ二十代の頃、信長の招きで上洛していて、たまたま本能寺の変に巻き込まれた。とっさに床の間の掛け軸を外して巻き取り、腰に差して逃げ出した。このとき、道案内してくれたのは、信長の下僕で、弥助というアフリカ生まれの黒人だった。掛け軸は牧𧮾の「遠浦帰帆」だったそうだ。