「二重生活」「ヒメアノール」「若くして死ぬ」「クリーピー」他

knockeye2016-06-26

 このところ、気持ちが後ろ向きになっていて、あるいは、ただ疲れてか、映画ばかり観ていた。
 「クリーピー 偽りの隣人」
 「TOO YOUNG TO DIE ! 若くして死ぬ」
 「ヒメアノール」
 「ダーク・プレイス」
 「二重生活」。
 5本とも当たりでどれも面白かったが、中でもいちばんお薦めなのは「二重生活」、次いで僅差で「ヒメアノール」、少し落ちて「クリーピー 偽りの隣人」、「TOO YOUNG TO DIE ! 若くして死ぬ」、しんがりに「ダーク・プレイス」。
 ただ、この中でオリジナル脚本なのは、宮藤官九郎の「TOO YOUNG TO DIE !」だけつうことを考えると、これをトップにすべきかも。2月から待たされた「お預け感」も手伝ってヒットするんじゃないかと思うし、して欲しい。地獄がテーマというから、もっと深い話なのかしらむと思いきや、むしろ、ロックがビジュアルとして取り入れてきた「地獄」、いわば「ファッション・ヘル」、デーモン閣下の「悪魔」とかいう意味での「地獄」なんだった。
 て考えちゃうと、憂歌団木村充揮の歌だったり、CHARと野村義男のギター対決にタンバリン芸人ゴンゾーが割り込んだり、なんていうあたりのロック系の小ネタにもっと尺をとってもよかったかも。
 それに加えて、往生要集的な地獄ネタと童貞恋愛ネタが重なり合って、すごくトリッキーな展開になってるのに、全くもたつかないのはやっぱりすごい。ただ、その複雑さがケミストリーを生んでるかどうかが評価の分かれ道だろうと思う。
 宮藤官九郎のロック映画といえば「少年メリケンサック」はかなり好きだった。ロートルのロッカーの陰な感じが。星野源とか出てたんですよ。
 その意味では、今回は、長瀬智也尾野真千子の演歌っぽい暗い部分がサラッとしすぎてたのかも。地獄が陽気でヘビメタで、現世が陰気でjpopつうコントラスト、あそこに緩急をつけきれなかったのかな。速い球をガンガン見せられると、感覚がバカになって、速さが実感できないのと似てる。
 「ダーク・プレイス」に出てくる悪魔崇拝は、仏教徒から見ると(それから、「TOO YOUNG TO DIE!」では、六道の天上界と極楽を混同している、仏教徒に言わせると)キリスト教信仰の裏返しに見える。ピルグリム・ファーザーズの上陸は、ウェストファリア条約より前だから、アメリカのキリスト教信仰は、中世に属していると言えるかも。
 シャーリーズ・セロンが、あいかわらずキレイ。顔もだけど、ウエストからお尻から脚に流れるラインがほんとにきれい。そういうきれいな人が、一家惨殺事件の生き残りで、かつての事件の真相を追っていきます。
 主人公の、ちょっと体に触られると激昂するあの感じの女性は、たまに出会うことがある。山口小夜子の映画のときだから、シアター・イメージ・フォーラムだと思うけど、あそこは指定席じゃないので、空いている席に勝手に座るんだけど、列の一番端っこに座ってる女の人がいたわけ。真ん中が空いてるから、「前、すいません」って、一つおいて隣の席に座った常識人スマイルの私に対して、「席を蹴る」っていう感じで立って、更に端っこの通路の向こうの席に移っちゃった。一瞬、ムッとしたけどね。でも、珍しくはない。
 映画を観ている途中で思ったのは、これ、原作の小説がかなり面白いんだぞって。原作に忠実すぎて、映画の文体を作りこめてない感じ。原作知らないんだけど、そんな感じ。ちょっと説明過多に思えた。
 クロエ・グレース・モレッツが、ヒットガール以来の鬼気迫る芝居ですごかった。
 「クリーピー 偽りの隣人」も、ミステリー小説を原作にしてる。けど、黒沢清監督らしく、設定だけ貰って、プロットは大幅に書き換えているらしい。なので、ちょっと破綻してるかなって部分はあるけど、原作者が了承してるなら、原作に忠実すぎないほうが良いと思う。映像で言語をなぞっても仕方ないと思うんです。
 それにしても「?」ってところはあるんだけど、そんなの「どうでもいいだろ」って黒沢清監督は、思ってる気がします。前の「リアル・・・」の時、インタビューで、「〇〇のシーンはどういう意味でしょう?」って訊かれて、「撮ってる時はなんか意味があったと思いますけど、忘れました」って答えてましたし。
 香川照之が圧倒的です。「TOO YOUNG TO DIE !」より上かなって思うのは、つまるところ、香川照之の存在です。けど、東出昌大藤野涼子も分かってる芝居してますね。
 「ヒメアノール」は「ヒミズ」と同じ古谷実の漫画だそうです。‘ヒミズ’は、もぐらの別称だったそう。でも、言葉の感じが震災と津波を思い出させる。そういう偶然も含めて、あの映画は園子温監督の傑作だった。
 ‘ヒメアノール’は、「アノール」が「トカゲ」の意味だそうで、ヒメトカゲは、猛禽類の餌になるトカゲのことだそうです。
 濱田岳って役者さんがなんつっても今お客さんを呼べるんだけど、今回は、ムロツヨシ森田剛佐津川愛美のキャラが立ってて、この4人が作る四角形の重心移動がスリリング。「君の名は」とか、恋人どうしがちょっとした行き違いでなかなか出会わないメロドラマがありますけど、この映画は、ストーカーで殺人鬼の森田剛と、狙われてる濱田岳佐津川愛美が、ほんの偶然でなかなか出会わない。そこに、ムロツヨシの、‘よい’ストーカー(比較の問題ですけど)が絡んできて話がややこしくなる。
 スプラッターホラーって見方をしてもいいんじゃないか。残酷なんだけど、どこか笑える、つうか、かなり笑える。
 「二重生活」は、スタイル、形式が内容と絶妙に響き合っている、ありそうでなかなかない映画です。「或る終焉」と見比べていただくと言ってる意味が伝わるかもしれません。
 画面の4分の1ほどが、人物の後頭部ってシーンがいくつあったでしょう。長谷川博己が演じている編集者が「陳腐だな」と吐き捨てるセリフがある。それは、門脇麦が演じる、修士論文を執筆中の哲学科の大学院生に対して、男としてより編集者としての性が言わせてしまっているのですけれど、今さら陳腐でない人生なんてどこにあるはずもなく、映画にしてしまえば、たとえば「安楽死」なんてドラマチックな出来事さえ「陳腐」になってしまうわけです。
 でも、ありふれた男女のごたごたさえ、その渦中にいれば、陳腐なんて言ってられない。では、その窃視者は、渦中にいるのか、いないのかってことは、ネットがあたりまえになって、むやみやたらと人がつながってしまう今という時代には、答えが変化するかもしれないわけです。
 無目的な尾行者(と、指導教授から立場を限定されている)門脇麦の目の前で繰り広げられる男女の修羅場は、もし、この尾行者の視点がなく、カメラがダイレクトに追っていたとしたら、学芸会でもボツになるほど陳腐なんです。ところが、ホテルのロビーのあの斬新なカットは、それを覗き見る者が主役で、覗き見ることがテーマだから可能になったと思います。
 門脇麦は、カレシの菅田将暉に、なぜこの修士論文について語らなかったのか?。語ってもよかったはず。でも語らなかった。それは、窃視者としての新しい自己、無記名で来歴のない自己を、快適であってもすでに私に記名された「陳腐な」自己と接続したくなかったと、説明できる気がします。
 この新しい自己が「陳腐」になるのは、門脇麦長谷川博己に接触してしまうからで、そうして初めて、菅田将暉に打ち明けることができました。
 無私で無記名な自己がなぜ人の情熱を引き寄せるのか、それが私に記名された途端に、なぜその情熱が消えるのか?、そういうことを繰り返して生きている気がしますが、そういう感想さえたぶん陳腐なんです。でも、そうした揺らぎを、形式にして見せたこの映画は新しいと思います。