『乞食王子』

knockeye2012-05-28

乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 今度の戦争は我々が起こした侵略戦争でないと今言うならば、そんなことはないと嵩に掛って反駁する人間が幾らもいて、彼等がそういう口の利き方をするのは、その背後に所謂、輿論があるからである。所で、もし戦争中にこれは聖戦ではないと言ったならば、やはり、そんなことはないと極め付ける人間が幾らもいたので、彼等にそれが出来たのも、その背後に所謂、輿論があったからである。決して軍部でも、警察でもなくて、今日、今度の戦争は侵略戦争だったと簡単に決める、この我々日本人が何十年か前から持っている第二の自分のような、風向きによってどうにでも変る輿論というものが当時もあったからだった。
 この輿論は国民というものでもないし、従って民衆の意見ではない。いつの頃からか、我々が自分でものを考える努力を惜み始めて、その懶け心に付け込んで日本中に拡がったものである。・・・

 吉田健一の『乞食王子』読了。
 こうやって断片的に文章を紹介しているけれど、こんなふうに一部を取り上げても、全体がどんな本なのかまったく見えないのが吉田健一らしいし、にもかかわらず、こうやって印象的な部分を取り出すことが出来るのもまた吉田健一らしい。
 つぎに紹介するのは「昔の方々」という章の全文。

 昔の方々

 序でに、昔、我々がまだ若かった頃、銀座その他で夜な夜な行った場所を一通り思い出して見たい。銀座から新橋の方に、裏通りの橋を一つ渡った先に、今でも吉野屋というおでん屋があるが、これは昭和初期にその頃はまだそう知られていなかった大家連や、文士の卵や少壮気鋭の編輯者がよく飲みに行った場所である。何故そういうことになったのか、その由来は知らないが、吉野屋を覗けば大概誰か、そういう文学と関係がある人間が飲んでいて、そして二人以上の場合は、多くは議論していた。その当時の若い文士の議論には何か壮烈なものがあって、喩えて言うならば、大変な勢いで流れている川の岸に立っていると、川の音の他は何も聞こえなくなるばかりでなくて、自分も川の水と一緒に押し流されて行く感じになるのが、丁度その、吉野屋で文士が議論するのに出会った時の気持だった。議論に巻き込まれるのは、急流に馬を乗り入れるようなもので、自分が言っていることの前後左右に水がしぶきを上げて激突した。
 言葉を扱うのが商売の人間は、あんな風に人を相手に議論するといいので、言葉や言葉で表された考えが人に投げ付けたり、骨身にこたえて自分の体で受け留めたりすることが出来る物体であることが解る。そしてその議論を進める体力と頭の冴えは吉野屋の酒が供給してくれて、それでも冬は足の方が寒かった。集まっている人間の身なりも区々で、背広を着たのや、どっしりした和服姿のや、寝巻のようなものの上に疲れた二重廻しを羽織ったものもいた。京大の学生で、朝日新聞の入社試験を今受けて来た所だという、大岡昇平という不思議な人間に会ったのも吉野家の二階である。金本位をフランス語で何と言うかという問題が出たとかで、今でも時々、金本位のフランス語は何なのだろうと思うことがある。併しその晩も、主な話は文学論だった。
 尤も、その頃は若手の文士が寄り集まっては議論するばかりでなくて、一人で飲んで夜の時間を過すこともあった。
 
 今宵は仲秋明月
 初恋を偲ぶ夜
 われら万障くりあはせ
 よしの屋で酒を飲む

 春さん蛸のぶつ切りをくれえ
・・・・・・・

 この井伏鱒二氏の詩に出て来る春さんというのが主人で、今でもその頃と同じ泣き出しそうな顔をして家業に励んでいる。三好達治の詩集、「測量船」が出た頃だった。その他に、横光利一氏の「機械」や、河上徹太郎氏の「自然と純粋」や、梶井基次郎氏の「檸檬」なども出たことを思い合せれば、あれは日本の現代文学に何ものかが生れた或る一時期だったのである。文学史を担った人々が、夜、酒を飲んで歩いていた。
 吉野屋とは大分離れて、銀座を中心にすれば、吉野屋の反対側の、どこか丸善の傍の横丁を入った所に、確か灘屋という飲み屋もその頃あった。酒は菊正だったか、白鷹だったか、兎に角、辛口の旨い酒で、ここにも先輩に連れられて飲みに行った。軒には杉の葉の束が吊してあって、酒を頼むと錫のちろりに入れてお燗してあるのを銅壺から引き上げて出してくれた。
 店の空気から、ここは急き込んで議論する場所ではなくて、よく通る声で静かに話す人間に適していた。そこで或る人に象徴と寓意の違いに就いて話を聞いたことがあって、その晩我々の向こうの卓子で一人の、着流しで半白の男が飲んでいた。幸田露伴という感じで、併し露伴ではなかったと思う。黙々と飲んで、盃に注ぐ酒が旨そうだった。ただそれだけで、話し掛けられた訳でもないし、それ切りで我々は店を出たが、当時はそういう、誰からしくて誰だか解らない人間がよく飲み屋の隅で飲んでいたり、街を歩いていたりしていたものだった。
 人出が今程ではなかったので目を惹き易いのと、それからもう一つは、文士がまだ名士に祭り上げられていなくて、新聞に写真が出るのは大臣や大将だったから、一流の人間が顔を看板にぶら下げて歩かずにすみ、こっちの方から言えば、出会っても誰なのか見当が付かなかった。横光利一氏など、横光さんであることを教えられるまでに何度道で擦れ違ったか解らない。
 その横光さんもよく行った店に、まだ埋められずに銀座の東側を流れていた三十間堀に掛っていた出雲橋の袂に、「はせ川」という小料理屋があった。これも今でももとの場所にあるが、店の中の様子が変ったから、当時の間取りを説明して置くと、入って直ぐ右側が台所で、左側に二階に行く梯子段があり、そこを抜けると両側に卓子が二つずつ壁に沿って並べてあって、その向こうの窓から三十間堀と出雲橋と、新橋の芸者衆が乗っている人力が築地の方に橋を渡って行くのが見えた。
 この店も昭和の初めから戦争で酒がなくなるまで、文士と少壮気鋭の編輯者が集る場所だった。恐らく文学と人生に関する問題で、ここの卓子を囲んで論じ尽されなかったものは一つもないのではないかと思う位である。卓子には徳利が並び、足は益々冷えて来て、酔いが頭の冴えに変って取り上げられた問題だけが眼の前に地図のように鮮明に拡って行くのが見えるのが、足の寒さも忘れさせた。春や秋も行っていたのに、何故冬の「はせ川」のことが主に思い出されるのか解らない。それ程、冬は寒かったのだろうか。「はせ川」の壁には、

  コンコルド女神老けにし春の雨


という横光さんの句が長い間掛かっていたにも拘わらずである。