「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」

knockeye2014-01-18

 ジム・ジャームッシュ監督の「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」。
 吸血鬼は仏教の文化圏内には存在しない。よく知らないけど、たぶんイスラムの文化圏内にもいそうにない。ルーマニアという、キリスト教文化圏の辺縁に発生したとされる彼らは、日常的に、教会の権威に抑圧を感じていたヨーロッパの人たちの、‘解放’の象徴として、一方で怖れられ、一方で、憧れられてきた存在なんだと思う。
 今回の主人公は夫婦の吸血鬼で、ティルダ・スウィントンが演じる奥さん‘イヴ’の方は、モロッコのタンジールに住んでいるが、トム・ヒドルストン演じる旦那‘アダム’は、デトロイトにいて、なぜか、伝説のロックミュージシャンとして世を忍んでいる。吸血鬼としてより、どっちかというとそっちの事情で身を隠している。
 そして、ふたりがふだんのやりとりに使っているのはiPhoneなんだけれど、旦那の方はどうやったのか、iPhoneの画面をブラウン管のテレビに映し出している。ヴィンテージもののエレキギターを奏で、録音するのはオープンリール、聴く音楽はアナログディスク。
 つまり、ジム・ジャームッシュが、21世紀の吸血鬼に、彼ら特有のアナクロニズムとして着せている時代の空気は、1970年代のロックミュージシャンなわけ。ロックは遠くなりにけり。
 旦那の吸血鬼はさいきん鬱みたいで自殺願望にとりつかれてる。それで、奥さんのほうがデトロイトまで訪ねてくる。
 夜のデトロイトをドライブするんだけど、途中で
「ああそうだ、君の好きそうなところがある」
とかいって、ジャック・ホワイトの生家を見せる。詳しくないけど、アメリカでロックといえば、いまはジャック・ホワイトなんだろうなって、あのシーンでもう勝手に確信することにした。
 あの、夜のデトロイトは、リアルに今のデトロイトなんだろう。もちろん、そういった場所を選んでいるにはちがいないけれど、21世紀の吸血鬼が棲みつくとしたら、デトロイトのあの荒廃ぶりはたしかにうってつけで、逆に、吸血鬼くらいいてくれないとすこしさびしいとさえ思った。
 ああいう荒廃を抱え込めることは、文明の成熟度を示しているのかもしれない。なんかいいじゃん。かつて栄えた町が今廃墟みたいなこと。
 後半はちょっと事件が起こって、二人でモロッコに移ることになる。モロッコは、正真正銘キリスト教文化圏外。キリスト教徒は自分たちの神の力が及ぶ範囲の狭さについてずっと意識し続けてきただろうという気がする。
 モロッコで奥さんが近所づきあいをしている吸血鬼仲間は、ジョン・ハートが演じる、クリストファー・マーロウ。もっとも彼自身は
「その名前で呼ぶのはよせ」
というのだけれど。ちなみに、旦那のアダムが使う偽名‘ドクター・ファウスト’は、クリストファー・マーロウの戯曲の主人公。そうしてみると、アダムの鬱はファウストの鬱と、パロディーとして重なっているわけだった。
 アダムが進化論について語るところがあるが、彼が「ゾンビども」と呼んでいた、アメリカ人の60%は、今でも進化論を信じていないというアンケート結果が、こないだ発表されていた。もちろんアダムは、進化論を信じない連中をゾンビと呼んでいる。
 進化論を信じているとはおおっぴらに言えないことも、アメリカ社会の一面であることは覚えておくべきだろう。キリスト教は彼らにとっていまでも抑圧であり続けている。だからこそ、吸血鬼が生き続ける。
 夜のデトロイトというリアルを、吸血鬼のロックミュージシャンという虚構が、夜のモロッコというイメージと結びつける。そしてそこにホンモノの音楽が流れていれば、映画が成立する確信が、ジム・ジャームッシュという監督に観客が信頼を寄せる本質なんだろう。
 ところで、日比谷シャンテで観たんだけど、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「鑑定士と顔のない依頼人」、また「完売」だった。どうなってるんだろう。