円空と木喰

knockeye2015-02-28

 「フォックス・キャッチャー」か「欲動」を観にいくつもりで、とりあえず横浜に出たのだけれど、早春らしい天気で気が変わって、そごう美術館で開催中の円空と木喰の展覧会を訪ねる。

 円空は1632年、美濃国に生まれ、1695年に没した。生涯についてあまりくわしいことは分かっていないらしいが、生涯で12万体の造像をする誓願を立て、現在5400体あまりが確認されている、その仏像、神像から足跡がたどれる。
 32歳から64歳で亡くなるまで、修験道の修行をしながら全国を巡って造像を続けた。

もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。

と、法然上人のことばにあるように、造像そのものが往生の行であったから、誓願のもとにはじめられた円空の造像という行為は仏教の修行なのだが、同時にそれが、役行者を祖とする山岳信仰修験道という、庶民の生活信仰に根ざした、本地垂迹神仏混淆と一体となっていることがとても面白い。
 木っ端仏といって、木ぎれのかたちをほとんどそのまま生かした仏像も多く、魅力的なのだが、そこにはやはり、仏教の体系的な教義よりは、もっと地霊的なもの、神道的な感覚を観てしまう。つまり、仏の姿を表現する‘素材’として‘木っ端’が選ばれたのではなく、はっきりと‘木っ端’そのもののなかに仏性とか神の存在を、円空は観ていると感じる。
 浄土真宗門徒であるわたしは、親鸞聖人が仏像を否定し(というか選ばず)、六字名号を本尊としたことを知っているが、同時に、あるお弟子が「熊野権現親鸞聖人にひれ伏した」という夢の話を、親鸞聖人が否定しなかったことも知っている。
 浄土真宗は釈迦回帰的でありながら、阿弥陀仏を頂点に据えることで、釈迦自身もふくめて諸仏やもろもろの神々をその体系に納めた点で、ひどく日本的でもあると考えている。結局、法然上人や親鸞聖人は「自分は罪深く、愚かなので、阿弥陀仏にすがるしかない」と言っているにすぎない。このロジックはたしかに、結果的には他の宗教を否定しているのだが、否定が排他にならないのだ。
 そういうわけで、浄土真宗門徒である私も、円空仏に対峙することができる。造像は、浄土真宗的には雑行にすぎないが、その行の意味は感覚的にさえ理解することができる。それは、キリスト教徒がこれに対する感覚とはまったく違っている「かもしれない」し、実はそう違わないのかもしれない。それはわからない。
 いずれにせよ、円空仏はたんに彫刻ではなく、仏なのだ。現代の私たちは、仏像を彫ることは理解できても、仏を造る感覚を理解しがたいかもしれない。だが、たぶん、円空には、仏像を彫っている意識はなく、仏を造っている意識だったろうと思う。その感覚が、信仰として庶民の生活に根ざしていたことが大事なのだ。
 たぶん、運慶快慶の奈良仏師の仏像よりも、円空仏の方が、庶民にとって「ありがたかった」はずだと思う。
 中に一点、顔が無残にたたき割られた仏像があった。そうだろうと思ったが、明治の廃仏毀釈のさいに傷つけられたものだった。
 明治という時代は、日本の庶民自身が、それまでの日本の文化を否定しようとした時代だったということを憶えておくべきだ。靖国神社なんかを「日本の文化」だというのは、その意味で、はっきりと笑える。という意味は、靖国について是非を論じるときに、靖国は日本の文化だからというのは論理にならないという意味である。
 国粋主義者が滑稽なのは、国粋的であればあるほど、自国の文化を否定することになるからだ。日本の文化は天皇家の文化そのものなのだから、日本の国粋主義者天皇家を崇拝しながら、天皇家を毀損している、矛盾、というより、やはり、滑稽が表現として正しいだろうと思う、そういう存在で、それは国を滅ぼすのも無理はないと思う。
 今上天皇が、「天皇家の歴史を鑑みれば、‘象徴天皇’のほうが‘国家元首’より実態にそぐわしい」という旨の発言をしている。わたしはこれは正しいと思うが、国粋主義者はこれを「正しい」とはいえないわけである。やはり滑稽である。
 木喰は、円空の死から23年後に生まれ、61歳のときに造像を始める。80歳で千体、90歳で二千体の造像を発願し、現在では720体の像が確認されている。

 円空の、仏教と神道のせめぎ合う、信仰の始原に根ざしたような荒々しい造型の力強さに較べると、木喰はずっとポップに見える。特徴的なほほえみは、文字通りアイコンとして当時の人たちに愛されたろう。中には、カドが取れてつるつるになっているものもある。これは、当時の子供たちが引きずり出しておもちゃにしていたからだそうで、中には背面のくりぬきの部分に入って、こともあろうに、‘ソリ’にして遊んでいたそうである。円空仏ではこれはありそうもない。
 木喰を現代に発見したのは柳宗悦で、日本民芸館所蔵のものも出展されていた。