「フォクス・キャッチャー」

knockeye2015-03-06

 一日は横浜ブルク13で「フォックス・キャッチャー」を観た。この日はうってかわって冬の一日で、着るものに迷わないのはよかったが、映画の日で、館内はすごい混雑。前日にKINEZOで予約しておいたからよかったものの、それでも、余裕こいて行っていたら、開映にまにあわなかったんじゃないかと思うほどだった。
 「フォックス・キャッチャー」も、前評判の高い映画だが、「アメリカン・スナイパー」を観た後でこれを観ると、すこし肩すかし気味になる。
 どちらも実話を元にしているが、「アメリカン・スナイパー」を一冊の本にたとえれば、「フォックス・キャッチャー」は、いわば、舞踏で、そのときそこにあるものがすべて。価値観の共有とか、観客の感情移入を拒絶して、むしろ、姿、形やたたずまいの正確な描写に徹しているかのように思えた。
 その意味では「大富豪はなぜ金メダリストを殺したか?」なんていうキャッチコピーはまったく的外れだけでなく、鑑賞の妨げになる。そういう推理小説めいた「謎の解明」みたいなことは、この映画はまったく気にかけてもいない。
 ジョン・E・デュポンを演じたスティーブ・カレルの演技が話題になっているが、兄弟で五輪の金メダリスト、デイブ・シュルツとマーク・シュルツを演じている、マーク・ラファロチャニング・テイタムは、体型はもちろん、身のこなしや歩き方まで、ホンモノのレスラーにしか見えない。あのレスリングシーンのていねいな描写に少しでも嘘くささがまじっていたら、この映画は台無しだったろう。
 ベネット・ミラー監督は、主役の三人に、撮影に入るずっと前から、人物に没入する長い時間を与えたそうだ。ジョン・E・デュポンについてのビデオは200時間もあった。マーク・ラファロは「スティーブが初めてデュポンとして歩み出たとき、悪寒が走った」と語っているそうだ。
 レスリングという、ギリシャとか古代ローマとかにまで遡る(グレコ・ローマンスタイルと申しますが)古典的なスポーツに、デュポン一族という名門の重厚さが画面に陰影を与えている。さっきこの映画を舞踏にたとえたけれど、変換ミスではない。たぶんレスリングという格闘技は古すぎて、日常的な戦いの感情が抜け落ちてしまっているのだろう。レスリングのそういうミニマリズム(?)が、この映画全体とよく似合っている。
 そういう視点からすると、ジョン・E・デュポンの母親との関係についての描写は、あの程度でさえ、説明的すぎるかなと思えてもくる。wikiによると、デュポン氏は、映画でもちょっと触れられるが、鳥類学者で著書もあり、貝類学者、切手収集家でもあり、デラウエア自然博物館を設立もしている。これらのことすべてが、母親とのことと同程度の重さだった可能性もあるのだし。すくなくともこれらの情報は、奇妙な人物にふさわしい、さらなる混乱を与えてくれるのは事実ではないだろうか。
 ネットにあふれている「○○はなぜ○○か?」「○○するこれだけの理由」といった記事に嫌気が差したら、観にいくべき映画かもしれない。