三原じゅん子について

knockeye2015-03-22

 三原じゅん子が国会で「八紘一宇」という言葉を「日本人が昔から大切にしてきた」とか言ったそうで、なにかしら小さく騒ぎになっているが、この三原じゅん子の言葉がホントかウソかは、三原じゅん子の言っている「日本人」が、いま、日本に暮らしている私たちのことを指しているならば、それを聞いて「ああほんとだな」と思う人が多数派か、「そんなことはじめて聞いたよ」と思う人が多数派かさえ調べればはっきりする、真偽の判定がわかりやすい発言ではある。そして、おそらく、それは調べてみるまでもないだろう。
 言葉について考えるときには、3つの面から考えなければならないだろう。ひとつは「意味」、今の場合は「字義」で、これは辞書を引くなり、ネットで検索すればたやすく知ることが出来る。ブログの記事なんかでも、ときどき、広辞苑にこう書いてあったから、wikiにこう出ていたから、「だからこれが正しいです」みたいなことを書いているのがあるが、文字通りの思考放棄だろう。
 言葉には「字義」のほかに「内容」がある。たとえていえば「かわいがる」という言葉の字義が辞書にどう書いてあろうとも、相撲界でこの言葉が使われれば、その「内容」はまた別のものになる。「かわいがる」という言葉を使ったからと言って、「字義通り」かわいがったとはかぎらない。字義だけでは言葉を理解したことにならない。
 そしてもうひとつ、言葉には「文脈」があるので、ある字義を持った言葉が、ある内容をもって使われてきた文化的背景としての「文脈」を理解しなければならない。
 「八紘一宇」という言葉が使われてきた歴史的な文脈を考えれば、日本の国会議員がその言葉を使ってはならないと私は思うし、そんな言葉を使わなければ何かを表現できないのだとすれば、国会議員となるべくあまりに語彙が貧弱だといわざるえないし、おそろしく想像力が欠如していると思う。
 以上は、「八紘一宇」という言葉を国会議員が使った場合の一般的な考察だが、しかし、今回の場合は、それに加えて三原じゅん子という情報がある。つまり、私たちはこの三原じゅん子という存在について、けっこうウエルインフォームドな状態にある。
 私の知るところでは、なんか学園ドラマでデビューしたタレントだが、その後は、歌手としても、女優としても、これといった代表作もなく、レーサーをやったり、うれない漫才師と結婚したりして、芸能界を泳いできた存在に過ぎない。この人が参議院議員になっているカラクリはよく分からないが、いまや絶滅寸前のタレント議員のはしくれであるには違いない。
 その人が「八紘一宇」なんて言葉を国会で使うからには、ここからは推測にすぎないが‘鉄砲玉’あつかいだろう。言わされてんだろう。明日いなくなっても誰も困らない存在に過ぎないんだから。
 今回のこの騒動で理にかなっている部分は、つまり、タレント議員の使い方としては、こんな使い方がもっとも正しいという点だけのようだ。
 先日もふれた『戦争が遺したもの』の中で、上野千鶴子が、ウーマンリブについて、「男たちに政治を任せていられない」という思いから自然発生的に生まれた運動だったと言っていたが、女性が自分たちの意見を政治に反映させなければならないという気づきは大事だと思うけれど、女が政治に関われば、すこしでもなにかがましになると思っているとすれば、それは幻想だろうと思う。