岡崎京子展 「戦場のガールズ・ライフ」

knockeye2015-03-28

 今日は暖かいので、今年初デニムで、世田谷文学館岡崎京子展に行ってきました。もっと早く行けばよかったのだけれど、あそこはちょっとアクセスが悪い。でももうあちこちで桜が咲き始め。最近の桜は散るより先に鳥たちが蜜を吸おうとして萼ごと噛みきるので、まるで椿みたいに落花してしまう。鳥たちの学習成果みたいですね。
 岡崎京子は床屋さんの娘さんだったんで、物心つくころから、お客さん用の漫画を読みむさぼれる環境にあった。
 だから、なのかどうかしらないが、漫画リテラシシーというか、漫画表現としての語彙の豊富さが言語表現のそれを軽く超えている。ということはつまり、ファッションにしても、ロックにしても、シーンとして受け取ったそうした情報のすべては、彼女にとって、言語化の手順を踏まず表現になる。もし、アートのすべてが言語化可能だとしても、言語以外の表現にリテラシーのある人は、言語を相対化できる。
 これに対して、言語以外にリテラシーのない人は、言語の体系の内側で思考を完結してしまうので、やすやすと正解にたどりついてしまうが、実は、自分が現実を取りこぼしてしまっていることに気がつかない。もちろん、言語以外の表現であれば現実を捕獲できるわけではない。だが、言語の網に絡め取られて、自分が現実から遊離してしまっているのに気づきもしない愚に陥ったりはしない。
 ここにあるパラドクスは、現実に乖離しているものは常に正しく、現実に敏感なものは常に間違い続けるしかないということだ。
 岡崎京子が1980年代に立ち向かったほど、勇敢に鋭く強い共感を伴って、今という時代の現実に切り込んでいるものはいないだろうと思う。それはひとつは、今という時代は正しさが容易く手に入り、そうした容易い正しさに、間違いをもって挑むことがとても困難であるかかもしれない。

 これは東京というたいくつな街で生まれ育ち「普通に」こわれてしまった女のこ(ゼルダフィッツジェラルドのように?)の“愛”と“資本主義”をめぐる冒険と日常のお話です。
「すべての仕事は売春である」とJ・L・Gも言っていますが、私もそう思います。然り。
 それ、をそう思ってる人、知らずにしている人、知らんぷりしている人、その他、などなどがいますが繰り返します。
「すべての仕事は売春である」と。
 そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。
“愛”は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。
 それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして“資本主義”も。
 でもそんなものを泳げない子供がプールに脅えるように脅えるのはカッコ悪いな。
 何も恐れずざぶんとダイビングすれば、アラ不思議、ちょんと泳げるじゃない?『バタ足金魚』のカオル君みたくメチャクチャなフォームでも。
 現在の東京では「普通に」幸福に暮らすことの困難さを誰もがかかえています。
 でも私は「幸福」を恐れません。
 だって私は根っからの東京ガール、ですもん。
(『pink』あとがき 1989年、マガジンハウス より)