山口小夜子 未来を着る人

knockeye2015-04-14

 東京都現代美術館で、山口小夜子の展覧会「山口小夜子 未来を着る人」を観にいってきました。
 山口小夜子の美しさは今でも色褪せない。タレントやアイドルにも、きれいな人はいっぱいいるけれど、彼女らはむしろみずからすすんで、自分のイメージを消費に提供しているようにみえる。というか、「これってこういうお仕事でしょ?」と、自分のイメージが消費されていくことを、当然のように受け入れているように見える。
 しかし、山口小夜子は消費されない。たぶんイメージを消費しているのは彼女の方なんだろう。わたしたちの山口小夜子像は、見るたびに山口小夜子に奪われてしまう。山口小夜子のイメージを支配しているのは、どこまでも山口小夜子なのだ。そのイメージは山口小夜子の表現なのであって彼女のレジュメではないのだ。表現者として表現の場にいることを確信している、その表現者としての姿が美しい。
 山口小夜子が、パリコレのモデルとして活躍を始めた70年代のその当時、ファッションデザイナーでさえたぶん表現者と認知されていなかったのではないか。ましてや、ファッションモデルについてのイメージはまだ明確な像さえ結んでいなかったのではないかと思う。
 そういうときに山口小夜子の表現は、ショーでも、写真でも、明らかに確信している。服を着ること、メイクをすること、歩くこと、動くこと、それどころか、存在すること自体が表現に徹していて、そこに、かけらほどのナルシシズムもない。小夜子の存在が場を支配しているが、そんな時の小夜子は、自我など歯牙にもかけない。
 東洋人として、初めてのパリコレモデルであるので、東洋人の美しさが認知されたように言われることがあるとしたら、それは間違いだと思う。あれは山口小夜子の美しさなのであって、東洋人であろうが、西洋人であろうが、誰も真似できない。だからこそ、多くのデザイナー、カメラマン、画家たちを惹きつけてきた。
 今になって、「山口小夜子とは本当はどんな人だったろう?」とか考えてしまうのは、おのれの凡庸を明かすことにしかならないだろう。今でも、山口小夜子の美しさは圧倒的で、誰かの考えた山口小夜子の「実像」などというものは、彼女の遺したイメージにたちまち焼き尽くされてしまうだろう。