「マジック・イン・ムーンライト」

knockeye2015-04-17

 米朝師匠が亡くなったのに、このブログで何も書かなかったのは薄情なようだけれど、米朝師匠の場合は、何年も前から、少しずつ少しずつ準備をなされていたかの感があり、大往生としか言いようがないものを、今さら駄文を書き連ねるのも、何か空々しいとしかおもえなかった。
 私が初めて米朝師匠の(ところで、関西人はまず例外なく「米朝師匠」と呼称する。噺家でも、弟子でもなくても。「桂米朝」などと呼び捨てにするのはよほどの田舎者か、北朝鮮のスパイだろう。)噺を聴いたのは、サンケイホールで「土橋万歳」だった。 それ以来、今に至るまで、他の噺家が「土橋万歳」というネタをやるのを聴いたことがない。初心者にふさわしいネタであったかどうか疑問だが、それでも、細部こだわって演じられる、奥行きの深い噺の世界に魅了された。落語という芸の楽しみそのものを教わった。米朝師匠はそういう存在だった。
 さて、「マジック・イン・ムーンライト」の話だが、毎年、ウディ・アレンの映画を観に行くようになって、これはなんか、米朝師匠の落語会を聴きにいく感じに似てるなと思い始めている。ウディ・アレンの映画のスタイルは、彼がNYでスタンダップコメディを演じていた頃の語り口を想像させる。小林信彦によると、声が小さすぎてあまり受けなかったという話だが。
 前回の「ブルー・ジャスミン」は、実を言えば、救いのない苦い悲劇なのを、ジャズをBGMに軽やかに語り終えた、ストーリーテリングのあざやかさに感服したのだったが、今回の「マジック・イン・ムーンライト」も実に小粋だ。「ブルー・ジャスミン」は、思いがけず(というと失礼だが)、ケイト・ブランシェットアカデミー賞を獲得したわけだが、もし、デートにオススメするなら、まちがいなくこっちだ。
 「英国王のスピーチ」のコリン・ファースが、皮肉屋のマジシャンを演じている。台詞の中にも「ミザントロープ」という単語が出てきたように思う。英語が聞き取れるわけではないが、「ミザントロープ」は、モリエールの戯曲のタイトルだし。「人間ぎらい」とか訳されているが、「ミザントロープ」という言葉は、どうも元のフランス語のまま世界中に通用しているようなのがなんとなく可笑しい。
 コリン・ファースのその「ミザントロープ」ぶりが、なんと言っても(いまプロットの転換点になっているあるシーンを思い出して笑っているところ)ちょっとしたものだが、思い出してみれば「ブリジット・ジョーンズの日記」のころから、この人のオハコというか、モチネタというか、そういうものかもしれない。
 ヒロインは、「バードマン」で、マイケル・キートンの娘役を演じたエマ・ストーン。1920年代のファッションが話題になっていたが、この頃と「バードマン」までの間には、大恐慌と数え切れない戦争が挟まっているわけだが、「グランド・ブダペスト・ホテル」とか、邦画で言えば、「小さいおうち」とかに描かれたモダニズムの時代に、人々が多分なんとなく信じていた人間性への信頼を、私たちは思い出してみてもいいわけである。というか、こうした「あたりまえ」の人間性を声高な教条主義に否定させないことを私としては信条にしているつもりでいる。