『33年後のなんとなく、クリスタル』

knockeye2015-06-26

 田中康夫の『33年後のなんとなく、クリスタル』を読んだ。
 33年はけっして短くない。猫なら絶対死んでる。
 33年前のそのころ、「なんとなく、クリスタル」という小説について、何を思ったかといえば、正直に言って、何も思わなかった。否定的とか批判的とかじゃなく、無感覚だった。わたしは自分しか見ていなかったし、自分以外の何かを見ようにも、自分のまわりに、どんな社会も存在していなかった。と、今となってみれば、そうわかる。読書が、非社会的な営みにすぎなかった。
 一読して、あれ?、これは吉田健一だなぁと思った。その第一印象は、ラフすぎるか知れないけれど、きっと間違ってないか、すくなくとも、自分にとっては、社会の成熟について考えさせる、ラフスケッチの一枚なんだろう。
 今さら、ごくあたりまえのことかもしれないけれど、ヒトは、社会にコミットすることでしか個人になれない。個性って、ヒトが社会にコミットする、その仕方に現れるさまざまなことでしょう。たとえば、社会に背を向けるにしてさえ、それが単なるポーズでないなら、そこにそのヒトの社会に対するコミットのありようがあらわれるはず。
 社会の側から言えば、ヒトが他者とかかずらわっていくとき、自己と他者の双方に、公平に存在すると期待している、他者の総和としての集団が、結局、社会なんだろう。
吉田健一丸谷才一が社会について対談していたとき、なんて言ってたかなぁ?。記憶だけで書くから、間違ってるかもしれないが、江戸時代には、日本にも社会があった、けど、明治維新に続く近代化でそれが一旦破壊されてしまった、その後、だんだん回復しつつあった社会が、軍部の暴走でまたダメになった、と言っていたように思う。
 夏目漱石がイギリスから帰朝して、小説を書こうとしたとき、ぶつかった壁は、その社会の問題だった、とも言っていたかも。丸谷才一が、漱石の小説で評価するのは『三四郎』までらしい。
 でも、面白いですけどね、『こころ』、『道草』、『明暗』。漱石は社会と格闘している感じがすごくあるわけだけど、それは、漱石が江戸っ子だったからかも。
 そういえば書きそびれていたけれど、吉田健一の『汽車旅の酒』っていう本も読んだ。
汽車旅の酒 (中公文庫)

汽車旅の酒 (中公文庫)

 改めて気がついたけど、吉田健一が主要な小説を書いたのは、ホントの最晩年だっていうの、さっき書いたことでいうと、軍部の暴走さえなければ、この人が青春時代を過ごした、昭和モダンのころ、日本にも近代社会が出来つつあったのに、という、悔やみきれない思いが、もはや戦後ではないと言われ始めたそのころに、ようやく実ったかに見える。
 『なんとなく、クリスタル』に文藝賞を贈った選考者の人たちはすごかったなぁと思った。江藤淳小島信夫島尾敏雄野間宏の4人だそうだ。
 長野県知事のころの話を読んでいて、橋下徹もそうだけど、そのまま地方自治にとどまってれば良かったのに、と傍目には思うんだけど、ストレスがすごいみたい。田中康夫橋下徹もタフだったな、たしかに。