「日本のいちばん長い日」

knockeye2015-08-22

 前にちらっと書いたけど、今、『磯崎新藤森照信の茶席建築談義』という本を読みかけている。
 お茶というのは、日本の文化の大きな伝統のひとつで、私たちが「日本的だな」と感じる美の感覚は多くお茶をよりどころとしている。ところが、お茶とは何か、千利休の思想とは何か、と追求し始めると、その本質はどんどんあいまいになっていく。千家茶道の、いわば、聖典である「南方録」などは、熊倉功夫も「99%まで偽書」と断言している。
 だけど、それが本当の伝統なので、伝統は箇条書きの教条でも、コインを入れたらコーヒーが出てくる自販機でもない。たとえば、それはヨーロッパでいえば、聖書がまさにそうで、聖書がいかにイエス・キリストの実像とかけ離れていようとも、そのこととヨーロッパの伝統は、また別の話なの。
 「駆け込み女と駆け出し男」のヒットも記憶に新しい、原田眞人監督の「日本のいちばん長い日」を観てきた。
 1965年に発表された半藤一利の原作を1967年にものした同名の映画があるが、何が驚くといって、当時はこの原作者のクレジットが大宅壮一となっている。当時、なぜ本当の作者が名乗れなかったかはわからないが、しかしながら、戦後20年という生々しさは、戦後70年の比ではなかったのだろうことは想像できる。
 後でリンクをはっておくけれど、半藤一利のインタビューによると、当事者に直接インタビューできたそのころでさえ、当然ながら、その証言から嘘と真実をより分けなければならなかった。戦後70年の今となっては、そのとき半藤一利のした仕事以上の正確さで真実に迫ることは不可能だろう。
 しかし、今回の映画が1967年のリメイクではないといえるのは、新しい資料の発見が生かされているだけでなく、昭和天皇が人物として描けている。そもそも、1967年版のほうは、天皇を正面から描くことを避けている。
 昭和天皇を映画に描く試みとしては、2006年に、アレクサンドル・ソクーロフというロシア人監督の描いた『太陽』があった。当時、私は、日本人が取り組まなければならない問題にロシア人に先を越されたかと思いつつ観に行ったけれど、実際に観た感想としては、昭和天皇を描くつもりはなくて、昭和天皇をよりどころに自由に連想したっていうていのもので拍子抜けした。
 そのあと、2013年には、トミー・リー・ジョーンズマッカーサーを演じた「終戦のエンペラー」があったが、あれは、架空の恋愛話を軸にしてるメロドラマで、観るまでもなかった。
 この映画が、おそらく史上初めて、昭和天皇を人間として描けた時代背景には、二つの神話が無効化したことがあると思う。
 ひとつは、いうまでもなく「国家神道」だ。天皇を「現人神」だと考えてる連中のことが、国民の意識のレベルで「片付いた」のだ。A級戦犯が合祀されて以来、昭和天皇も平成天皇も断固として靖国参拝をしていないが、今年も性懲りもなく靖国に参拝する政治家がいる。国家神道の本尊であるはずの天皇陛下が参拝しないのを尻目に、徒党を組んで参拝する政治家を、佞臣奸臣といわずして何だろうか?。国家神道が、世界にもたらした災厄を思えば、逆説的に、もし天皇に絶対権力があるなら、靖国は禁教とされていてもおかしくない。
 もうひとつの神話は「天皇の戦争責任」で、これは、「リベラル」と呼ばれていた人たちがかまびすしく喧伝していたことなのだが、これにもリアリティーがなくなったことが、むしろ、国家神道が意識のレベルで無効化するうえで重要な要素だろうと思う。
 わたしは、昭和天皇に限らず、明治天皇でも大正天皇でも、そんな絶対的な権力を持ち合わせていなかったと思う。そもそも、天皇の存在がこんなに長く続いているのは、藤原摂関時代にはすでに実権を失っていたからではないのか。それをいまさら、天皇の戦争責任って、もちろん、それがホントなら、曲庇するつもりはない。しかし、二二六事件を抑えたのも昭和天皇だったし、開戦の直前まで、戦争を回避しようとしていたことは疑いないと思われる。
 「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」の中で、福島菊次郎が言っていたが、ある日、昭和天皇のインタビューをテレビで見ていたら、戦争責任について尋ねられて、「そのような文学方面についてはお答えできるすべがありません」とディテールは忘れたが、そんなふうに答えていたのだそうだ。福島菊次郎は怒っていたが、わたしは、昭和天皇の頭の良さに驚いた。
 明治以来の日本の構造的な問題は、常に官僚主義であり、今もそうあり続けている。民主主義は未成熟だが、上部構造の権力も弱い。そういうときに、官僚主義がはびこるのはむしろ当然と思われる。戦争が国力を食い尽くし、官僚の力が弱くなって、相対的に天皇の力が強くなった、その結果として、戦争を終結できたにすぎないだろう。
 天皇が大元帥だから戦争責任がある、という論理は、形の上からは確かにその通りだが、それは、ピント外れなだけでなく、その論理が、官僚的であることが、もっとも問題なのだと思う。形式上は正しい、しかし、本質ははぐらかしている、こうした論理が、つまり官僚の常套的な論法であることに、いい加減、気が付いていい。もし、気が付いていて、しかし、長いものに巻かれているのだとすれば、戦争責任は、むしろ、そうした人の心にあるだろう。
 戦後70年の今年、この映画が立ち現れたことは、時代の分岐点かもしれない。半藤一利ルポルタージュがいかにすぐれていたとしても、それが、物語として人々の前に現れることとはまた別で、半藤一利の本が書かれてから、この映画の成立までに要した半世紀がそのままこの映画の重みかもしれない。
 日本の一番長いその1日、昭和天皇鈴木貫太郎首相、阿南陸軍大臣だけでなく、焼け野原の東京に、家を失った子供たち、子供を戦地に送った母親、その一方で、二千万人特攻隊をやればまだ勝てるとうそぶく役人、神国日本の不敗神話を本気で信じているバカな若者の姿、などなどが偏りなく描かれている。
 物語の力とは何ですか?。私はあなたに聞きたい。それは言葉ではない。言葉にはならないが、安直な言葉に化けて飛び回るプロパガンダの前に立ちふさがり、それを無効にする。
 だが、こういうこともいえるかもしれない。結局、人は、信じたいものを信じる。心が卑しければ卑しい物語を信じる。心が豊かならば豊かな物語を信じる。プロパガンダは卑しい物語というにすぎないのかもしれない。
【自作再訪】半藤一利さん「日本のいちばん長い日」 歴史の「ウソ」常識で判断(1/4ページ) - 産経ニュース 【自作再訪】半藤一利さん「日本のいちばん長い日」 歴史の「ウソ」常識で判断(1/4ページ) - 産経ニュース
映画『日本のいちばん長い日』田原総一朗VS小林よしのりが語る「リーダーたちの決断」 - ハードワーカーズ 映画『日本のいちばん長い日』田原総一朗VS小林よしのりが語る「リーダーたちの決断」 - ハードワーカーズ
『日本のいちばん長い日』原田眞人監督インタビュー「若い世代は戦争を学ぶ事を放棄している部分がある」 | ガジェット通信 『日本のいちばん長い日』原田眞人監督インタビュー「若い世代は戦争を学ぶ事を放棄している部分がある」 | ガジェット通信
映画『日本のいちばん長い日』原田眞人さん 映画『日本のいちばん長い日』原田眞人さん