「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」

knockeye2016-04-05

 「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」は、ほんとは「ピロスマニ」と同じ日に観た。
 「ピロスマニ」を画家の伝記映画だとすれば、「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」は、カメラマンのドキュメンタリーということになる。
 でも、これはたとえば、アンリ・カルティエ=ブレッソンとか、ロバート・キャパとか、ゲルダ・タローとか、ジャック=アンリ・ラルティーグとか、ロベール・ドアノーとか、アルフレッド・スティーグリッツとか、石内都とかの、ドキュメンタリーがもしあるとしても、それらとは、趣が違ってくる。
 というのは、ヴィヴィアン・マイヤーは生涯に膨大な量の写真を残したにもかかわらず、生前にはそれを一葉たりとも発表しなかった。写真を撮っただけで、発表しなかった人物をカメラマンと言えるかは、けっこうスリリングな問い掛けかもしれない。もしそう言えるなら、世の中のほとんどの人はカメラマンになってしまう。だから、彼女は生きている間は、カメラマンって訳じゃなかったというのが正確かもしれない。
 もっと正確に言えば、この映画を含む様々な状況が、今まさに彼女をカメラマンにしつつあるのかもしれない。公式サイトのコメントを見ると、飯沢耕太郎が「1950〜60年代を代表する写真家といえばロバート・フランクダイアン・アーバスだが、ヴィヴィアン・マイヤーの才能は彼らに匹敵する。」と書いているくらいだから。
 彼女の写真と彼女を発見したのは、この映画の監督でもある、ジョン・マルーフという、才気を感じさせる若いアメリカ人で、シカゴの歴史について本を書いている時に、当時の写真が必要になって、地元のガラクタを扱っているオークション・ハウスで、「写真のネガでいっぱいの箱をひとつ」競り落とした。なんか鑑定団のエピソードみたい。
 380ドルは、どんな写真かわからない段階では、安くはないと思うが、ともあれ、その時の本にはヴィヴィアン・マイヤーの写真は使わなかった。でも、「僕には見る目がある。時間があるときにゆっくり見よう」と思ったのだそうだ。
 「見る目がある」というには背景があって、彼は母子家庭の出身で、貧しかった子供の頃から、「ガラクタを見つけては、フリーマーケットで」売ったりしていたそうだ。
 そういう目って、どういう目だろうと思ってみる。例えば、子供の頃から、贅を尽くした調度品に囲まれてホンモノの美術品を飽きるほど見てきた目とその目の審美眼は違うだろうか。
 ともかく、試みにヴィヴィアン・マイヤーの写真をブログにアップしてみると、たちまちに話題を集め、欧米各地で展覧会も開催、メディアでもとりあげられ、写真集は全米のトップセールスになった。
 ジョン・マルーフは、「ヴィヴィアン・マイヤーとは誰なのか?」を探ることにした。この映画はそのいきさつ、多くは、彼女を知る人のインタビューで構成されている。
 ヴィヴィアン・マイヤーは乳母だった。乳母という職業については、聞いたことはあるが実物に出会ったことはない。実は、ジョン・マルーフというこのドキュメンタリー作家が非凡なのは、というか、なかなかの食わせものなのは、この先なのだろうと思う。「世界中に散らばった彼女にまつわる奇妙な物語のライブラリー」と書いているが、ヴィヴィアン・マイヤーが乳母をしていた家族の親と子、それぞれのインタビューの微妙なズレ、また、乳母を雇える家族と乳母という立場の、いわば、階級格差とでもいうべきこと、から、アメリカの「え?」という部分が見えてくる。その「え?」は、トランプという人が大統領選で躍進する「え?」という感じに似ている。
 特に、子供たちは、ヴィヴィアンの異様さに反発しながらも、「かけてもいい」と言いつつ、彼女のトラウマの部分、おそらく、レイプを経験したと勘付いている。しかし、親の方は、体面をつくろう発言をするだけなのだ。
 私自身の経験(と言っても、一般的に言えば大したことではない。幼い頃に、男にフェラチオされただけなのだが)から、痛々しかったのは、よろけた彼女に、男が手を差し伸べた瞬間、彼女が見せた反応を、かつて彼女に育てられた子供がいまだに憶えていると言ったこと。私はこの歳になっても(どの歳かは言わないけど)、男に体が触れると反射的に身を硬くする。
 具体的に言えば、電車の席で隣に男が座るのは何とも思わないが、こないだ、もう次の駅で降りるし、立っている人もいないしで、優先席に座っていたら、隣に座ったじいさんが、わざとらしく肘を組んで、その肘がこっちの肘に当たっている。異常なくらいムカムカしてきて、殴ってやろうかこいつ、くらい考えている自分に気がついて、はっと自分の気持ちをたどってみると、結局、そこに辿り着く。むしろ、この歳になってようやく振り返れるようになったにすぎない。
 全然映画と関係ないが、個人的ブログなのでこんなことも書く。ヴィヴィアン・マイヤーが大量の新聞の切り抜き、しかも、悲惨な事件の切り抜きばかりを集めては「ほらね」と言っていたという証言など聞くと痛ましい思いがする。
 「ピロスマニ」は、封切りから50年近く経っても、新鮮さを失わないすぐれた映画だった。しかし、ドキュメンタリーの持っている力はそれとはまた別のものだろう。「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」が、50年後もその価値を失わないとしたら、それはアメリカの今の現実を映しているその正確さからだろう。