ヨコオ・ワールド・ツアー、HANGA JUNGLE

knockeye2017-06-16

 町田国際版画美術館で、横尾忠則の「HANGA JUNGLE」を観た。これは、もうすぐ、神戸の横尾忠則現代美術館に巡回するそうである。
 書き逃していたけど、GWに帰省したときに横尾忠則現代美術館で開催中の「ヨコオ・ワールド・ツアー」も観た。それで、その話を先にするが、一番印象に残ったのは、髭未だ生ぜざる頃の横尾忠則が欧州旅行中に撮ったスナップ写真の数々。図録に全部が採録されていないのが残念。DVD付録にでもして欲しかった。みんなカメラ目線でニコニコしている。東西が遠く、世界が広く、旅人は少なく、フィルムは1ロール36枚、ネットにアップされる心配もなく、変なカキコミもされないとなれば、笑顔を惜しむ必要もなかった。この頃の写真は本質的に親密なものであり、個人的な追憶を補完する以上のものではなかった。
 ミュージアショップにこの↓

絵のスカジャンが売ってたのだが買うのを躊躇してしまい、帰りの電車の中で自己嫌悪に陥った。超カッコいいんだけど、そこで衝動買いできない自分のみみっちさが情けなかった。
 というわけで、「HANGA JUNGLE」であるが、図録と位置付けられている本は、国書刊行会の出版で、「横尾忠則の全版画がこの一冊に!」と宣言されている。わたくし、思わず「ホントですか?」と売り場の人に聞いちゃったが、答えてくれなかった。疑う根拠もないけど、横尾忠則の展覧会は何度も訪ねたが、とにかく多作で、その度に新作に出会うので。まあ、いずれにせよ、来年の今頃には「全」じゃなくなってる可能性が大きいわけだから、今それを詮索する意味もないが。
 横尾忠則の作品を、時系列に沿って観るってことをしたことがなかった。版画っていうジャンルに限定して、時の流れを見せる展示はなかなか面白かった。
 1980年、ピカソの大回顧展に触発されたという、この人の「画家宣言」を、私は今まで大したことと思ってこなかった。「今までも画家だったでしょ?、何をいまさら?」って、それを宣言しなければならない何かをつかみ損ねていた。たぶん、その頃の私は、グラフィック・デザイナーというカタカナの職業の方が、画家っていう古めかしい職種より新しく思えていたのではないか。だから「歳なのかな」ぐらいに思って通り過ぎたようだ。
 『横尾忠則自伝「私」という物語 1964-1984』には、

ピカソのような生き方、つまり創造と人生の一体化が真に可能ならそれに従いたい

と当時の思いが書かれてあるそうだ。
 グラフィック・デザイナーと、敢えて商業的であることが、ファイン・アートの伝統に対して、カウンター・カルチャーでありえた時代は確かにあったが、それは、そうしたカウンター・カルチャーが市民権を獲ると同時に意味を失ってしまう、創造的というより、批評的な態度だという意味で、逆説的に、過去のファイン・アートの画家たちより、ファイン・アートの伝統に依存している。横尾忠則の「画家宣言」は、より自由に、真に個性的になるための飛躍だったのだろうと思った。
 時系列的な展示なので、「画家宣言」前後の違いがわかる。というか、その後の横尾忠則にとっての「画家宣言」の必然性がわかる。自由であるためのもがきを感じる。
 この展覧会は撮影可だったので、何枚か撮ってきた。

 これは、《Artist in Forest 1》1984ミラノ郊外のヴァレーゼの森で撮影した、イタリア人アーティスト3名の裸のパフォーマンスをもとに制作されたリトグラフ。これは、画家宣言があったからこそ可能になった表現だと見えるわけである。