エマニュエル・トッドの『世界の多様性』

knockeye2017-06-18

世界の多様性 家族構造と近代性

世界の多様性 家族構造と近代性

 今更ながら、エマニュエル・トッドの『第三惑星 家族構造とイデオロギーシステム』を読んだ。原書は、1983年に出版されている。34年前。マルクス主義的な世界観は、ソ連崩壊を待つまでもなく、この本の出現で、完全に息の根を止められていたみたい。
 世界に存在するすべての国家や民族とその政治体制との関係が、実はその伝統的な家族のあり方に支配されているとするエマニュエル・トッドの仮説は、マルクス主義の仮説が「観察された事例を説明できない」のに反して、それが可能である。地球上全域のイデオロギーシステムを説明できるのだ。
 先進国のイギリスではなく、後進国だったロシアで革命が起きた時点で、マルクス主義的世界観は、すでに「?」となっていたのだが、何となくなあなあで正しいという‘てい’を保ってきたにすぎなかった。その弊害は大きかったはずである。
 政治体制を歴史的発展段階に分け、架空の時系列に並べて見せるマルクス主義モデルは、その結果として、今、目前にある問題に対しては、「発展段階にあるから」という理由で、それを看過する怠惰も許すことになった。それどころか、「今は革命が成就していない」その前段階だからという理由で、暴力も殺人も、自らに許した「自称革命家」達を輩出した。
 キリストの復活を果てしなく未来に先伸ばししていくことで、権威を肥大化させていった教会のように、マルクス主義者もまた、革命をを未来に押しやることで、エリートの正当性を担保することができたわけである。
 とうてい科学とは言えないこんな代物が、永らく(もしかしたら今でさえ)、政治の場で科学としてまかり通ってきた。全然、現実を説明できないのに、「でも、私たちが正しいんですよ。あなたには分からないでしょうけどね、ん、ん、ん・・・」みたいな。
 エマニュエル・トッドの仮説は、事実で検証できる。エマニュエル・トッドもこの仮説を立てた当初から、すべてのデータを手にしていたわけではなかった。データを集めていく過程で、ひとつでも、仮説を覆す例があればすべて終わりだったが、世界のどこにも反証となる例はなかった。実証的な態度がマルクス主義を退場させたのは象徴的なことに見える。
 家族は、ヒトが生命をつないでいくためのシステムである。そう考えれば、家族のあり方の違いが、国家や民族の政治体制の違いと関わりあうのは、しごく自然だ。なぜ誰も気がつかなかったの?って感じだが、でも、私自身、日本とイギリスで、親子や兄弟のあり方が違う、一方では、アイルランドと日本が同じであるとは、この本を読むまで、気がつきさえしなかった。
 ただ、アイルランド人と日本人が似ているとは思っていた。リチャード・ギアの日本びいきは有名だが、私は以前、「ゲット・ラウド」という、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト、ジ・エッジの3人がギターについて語る映画を観た時に、ジ・エッジを「なんでこの人はこんなに日本人みたいなんだろう?」と驚いたことがあった。
 ま、これが小さな傍証のひとつになるかどうか知りませんがね。
 エマニュエル・トッドは、世界中の家族構造を、親子と兄弟と婚姻のあり方で7つのタイプに分けている。日本は、権威主義家族と名付けたタイプに分けられる。他のタイプについて書かれている章を読んでいるあいだは、そんなもんですかねぇくらいの感想だが、権威主義家族について書かれている章になると、思い当たることだらけ。
 日本について書いているわけではなく、権威主義家族全般の傾向について書いているだけなのだが、たとえば、権威主義家族は、相続が長子、または、末子相続と、兄弟の関係が不平等なのだが、その結果として、社会全体はむしろ平等になる。なぜなら、資産が分散されないので、大資本家もプロレタリアートも発生しないから。
 これを読んで、私がハタと膝を打ったのは、エマニュエル・トッドの知ったことではないだろうが、では、こうした人たちは、機会の不平等には鈍感でも、結果の不平等は受け入れがたいという感情を共有するだろうと思ったのだ。
 だとしたら、「小泉純一郎が日本の社会を破壊した」といった、根拠には乏しいが、必ずしも無視できない数の支持者がいるらしい言説の、本質的な心証もまた、権威主義家族の構造によるところが大きいのではないかと、勝手に腑に落ちた。
 当時、田原総一郎が、竹中平蔵をテレビに出すと「あんな奴テレビに出すな」という苦情電話が殺到すると首をひねっていた、その集団ヒステリー的な状況も説明できる気がする。
 この著作は、全世界の家族構造とイデオロギーシステムを網羅することに力点が置かれているので、各地域の解像度をもっと上げていくことも可能なんだろうと思う。たとえば阿部謹也の『世間とは何か』の「隠者とは日本の歴史の中では例外的にしか存在しなかった『個人』に他ならない。日本で『個』のあり方を模索し自覚した人はいつまでも、結果として隠者的な暮らしを選ばざるを得なかった」とか、小熊英二の『単独民族神話の起源』にある「まず個人があり、それがあつまって集団ができるのではない。まず集団があり、そこからの疎外現象として<個人>が析出されるのである」といったことともすんなりとつながり、包摂していくように思う。
 ちなみに、『世界の多様性』は、『第三惑星』と『世界の幼少期』の2冊を合わせて一冊にしている。