「甘き人生」

knockeye2017-07-16

 この三連休はひどい暑さだった。どこかに出かけるより、窓を開け放った部屋でウトウトしている方が正しい過ごしかただろうが、きのうはとりあえず映画一本だけ観て帰った。
 今日こそ、どこへも出かけないつもりでいたが、渋谷のユーロスペースに「甘き人生」てふイタリア映画を観に行った。
 マルコ・ヴェロッキオ監督が、イタリア人ジャーナリスト、マッシモ・グラメッリー二の自伝的小説『Fai bei sogni(よい夢を)』を映画化した。
 9歳で母親を亡くした少年の、その後の半生を描いている長編小説が原作なので、たぶん下手な映画監督だと、ワイドショーの再現ドラマみたいになるのがオチなのを、この監督は、まるで、窓からトリノのスタジアムを見下ろす、アパートの部屋での一瞬の回想のように描いている。ほんとうは、時代も、90年代、60年代、と様々に往来するし、シーンも、トリノ、ローマ、サラエボと移動しているが、隠された主題となる旋律が、多彩に転調、反復して、各シーンをつないでいるので、全体がなにか一炊の夢みたい。
 この主人公が、突然に母を亡くした、9歳の頃の正直さを、誰もが失ってゆくとしても、その傷は癒されたりはしないのではないか。「傷」という言葉さえ比喩にすぎなくて、目に見える血が流れているわけではないのだから、「癒される」も比喩にすぎなくて、それこそ、ジョセフ・コーネルの箱(これは比喩というより象徴だが)のようなものになって、心の何処かにあり続けるのではないかと思った。
 原作の小説は、日本語に翻訳されていないらしく読みようがないが、遡って、この映画をノベライズすることは多分むずかしい。さっき言ったように、言葉で語られるプロットとは別に、伴奏する映像言語の旋律があって、これを文字に起こすことは困難だと思う。
 一例を挙げると(詳しくは書かない)、ジャーナリストとして取材に赴いたサラエボに、一緒に行動していたカメラマンのふとした行為、帰国した後に襲われるパニック障害、病院を出たあとに、橋の欄干にもたれながらの回想シーン。観客は不思議なデジャブに襲われるかも。あれ?、このシーンは前に見たのか?と。だが、そうではなく、この小さな回路をまわり続けて、そこから抜け出せないのは、主人公ひとりなのだ。
 トラウマを抱えて生きている当の本人は、それがトラウマだと知らない。この映画の卓越したところはそこだと思う。トラウマを暗喩として随所にちりばめながら、主人公自身の口からはトラウマの一言も語らせない。その小さな回路を主人公と巡りながら、観客は、主人公の覗き込んでいる闇のありかを遠望することになるだろう。
 「バーでひとりもの思いに沈んでいる誰かを、あの男はどんな人なんだろうと思う。そんな風にしずかに映画がすべり出していく」
と、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」について書いたが、この映画も確かにそんな映画だと思う。
 主役のマッシモを、ヴァレリオ・マスタンドレア、ヒロインの女医エリーザ役をベレニス・ベジョが演じている。ベレニス・ベジョは、フランス映画として初めてアメリカアカデミー賞作品賞を受賞した「アーティスト」のヒロインで、「セールスマン」のアスガー・ファルハディ監督の「ある過去の行方」で、カンヌ映画祭女優賞を受賞している。
 上映館が少ないのが残念だ。神奈川では、9月2日からジャック&ベティでやるそう。それから、新百合ヶ丘川崎市アートセンターでも8月26日から上映するそうです。
 蛇足ながら、主人公が父親から指輪を受け取るあの山は、ACトリノの選手18人とスタッフ5名が飛行機事故で亡くなったスペルガの丘だろうと思う。60年代から90年代の、イタリアの歴史に詳しいと多分もっと楽しめるのだろう。