「ワンダー・ウーマン」

knockeye2017-08-26

 この週末は、観たい映画が一斉に封切りされた。「パターソン」、「幼な子われらに生まれ」、「ワンダー・ウーマン」、「ELLE」。この週末は「ワンダー・ウーマン」、「パターソン」、「幼な子われらに生まれ」、「ベイビー・ドライバー」を観た。
 まず「ワンダー・ウーマン」について。
 「ワンダー・ウーマン」のガル・ギャドットは、こんなキレイな人が世の中にいるの?ってくらいきれい。で、ワンダー・ウーマンにうってつけなんだけど、逆に言えば、ワンダー・ウーマン以外の役はちょっと難しいかもしれない。シャーリーズ・セロンがどこかで言ってたけど、背の高い美人は(これを自分で言う資格が彼女には確かにある)できる役がほとんどないので、苦労したそうだ。
 「ワンダー・ウーマン」は世界的に大ヒットしているそうだが、ガル・ギャドットの美貌もさることながら、やっぱり、第一次世界大戦という設定が上手い。今年もまだ第一次世界大戦から100年の節目に当たっている。ちなみに来年もまだ。第一次世界大戦は、西欧の価値観を決定的に変えた。
 映画の中で、ワンダー・ウーマンが生まれた島は、ゼウスがどうのこうのという、ヨーロッパの古典古代の世界。そこに、第一次世界大戦のドイツ軍の飛行機が墜落してくる。そこから、塹壕戦あたりまでの展開は、まさにその西欧の古典的理想(真・善・美とか、自由・平等・友愛とか漠然とでも信じられていたであろう理想)と、戦争で人々が目の当たりにした世界の醜悪さの見事な対比になっている。
 映画で描かれている塹壕は、まだ生易しい。実態は、死んだ兵士を運び出すことさえままならず、その場で朽ち果てて行くに任されていたという。その傍らで、24時間交代で敵と睨み合い続けなければならなかった。オットー・ディックスの描いたのはまさにその塹壕だった。
 第一次世界大戦に砲兵として従軍したマックス・エルンストはこう書いている。

機械仕掛けの人間たちは、自分たちは、なるほど魂は持っていないが、しかし死ぬことはできる、と証明するため、互いに殺し合った。

 塹壕戦を突破していくワンダー・ウーマンの姿は、その意味で震えるほど感動的なはずである。なぜなら、第一次大戦が始まった時、人々はまだ、実際の戦争でさえ、どちらかと言えば、ワンダー・ウーマンのようなものだとイメージしていたからである。爆撃と毒ガスで腐敗していく兵士が、現実の戦争だとは思っていなかった。
 これは、実は、日本人にとっても他人事ではなかった。上野戦争を、現に、取材した月岡芳年は、その悲惨さを目の当たりにしていた。だから、晩年に心を病む。だが、多くの人にとっては、明治維新は、英雄譚に似ていた。
 世界史的に見れば、明治維新は、名誉革命フランス革命アメリカ独立戦争に連なる近代革命だったのであり、その意味で、明治の日本は、西欧の古典的理想に参画していたはずだったのである。それが後には、西欧帝国主義の無残なカリカチュアと堕していくわけだが、そのカリカチュアの原本こそ、第一次世界大戦だったと言えるだろう。
 第一次大戦中、パリにいて、赤十字のボランティアとして働いていたレオナール・フジタは、第一次大戦の暗い面を見逃していたと思う。後の太平洋戦争で戦争協力と非難される《アッツ島玉砕》とか、《サイパン同胞臣節を全うす》なんて絵には、第一次大戦よりもっと前の古典的な戦争画のイメージがずっと濃いと思う。
 映画「ワンダー・ウーマン」は、そういうわけで前半3分の2くらいまで快調だが、ラスト30分くらいで普通のDCコミックに戻ってしまう。つうか、はじめからDCコミックなんだからそれでいいんだけど、冒頭、ルーブル美術館のガラスのピラミッドから始まるのだから、ラストももっと期待しちゃう。
 しかし、第一次大戦以後の西欧文明のあり方まで「ワンダー・ウーマン」に期待する方がどうかしてる。
 普段、DCコミックなんて見ない人にもオススメです。ガル・ガドットを見るだけでも眼福です。