ゴミのリサイクルには必死なのに、住宅は使い捨ての不思議の国

knockeye2017-09-06

 少子化に歯止めがかからず、人口は減り、空き家が増えて問題になっているのに、駅前にまたタワマンが建ってる。mansionとは言うけれど、NYのアパートほどの広さもない、大きめの蟻塚みたいなのがにょきにょき建つわけ。
 日本には地域社会がなく、子供の頃は学校、大人になると職場が、その代用になってきた。しかし、その構造も、生涯雇用が崩壊してすでに終わった。
 今では死語なので、そのニュアンスの気持ち悪さが伝わらないかもしれないが、その頃には「愛社精神」などという言葉があり、照れもせず口にする大人が確かにいた。それは、職場が社会の代用だった傍証だろう。
 「愛社精神は悪党のよりどころ」と言った人はいないが、その実例はそこここにあって、具体例を挙げられる人は珍しくないだろう。たとえばOLYMPUSとか。
 あれは違法な経理操作で国際社会のルールに背いたわけだが、日本人にとっては、社会が社内にしか存在しないので、当事者は悪事を働いた実感さえもってないだろう。たまたま英国人が社長だったから、悪事が暴かれて救われたのだが、そう思ってない人も多分多いのだろう。
 社会が職場にしか存在しない日本人にとって、家とは何かはむずかしい問いかけだ。しかし、その家が物理的に存在する地域社会とは何かといえば、これは逆に簡単で、日本人にとって地域社会とは、ゴミを出すところなのだ。地域社会のルールといえば、ゴミ出しのルール以外にない。
 燃えるゴミとプラごみを分けている自治体もあると思うが、今の焼却炉は進歩しているので、どっちも結局燃やしているそうだ。にもかかわらず、分別のルールを変えようとしない自治体もある。なぜかといえば、住民にとってはゴミを出すところにすぎない地域社会も、地方自治体の職員にとっては職場であり、かれらにとってだけは、地域社会が実際に社会だから、ゴミ出しのルールは彼らの社会のルールであって、ただゴミを出している住民に、彼らの職場のルールに口出ししてほしくないわけである。
 住みやすい町で借家暮らしをするのと、息苦しい町の持ち家に住むのと、どちらが幸せか、冷静に考えれば誰でもわかるが、後者は金があれば何とかなりそうなのに対して、前者はどうすれば良いかわからない。それで多くの人は後者を選択して、ますます地域社会は失われていく。日本の家は、座礁した難民ボートみたいなものだ。そこには、打ち捨ててきた社会の残滓しかない。
 日本人の持ち家信仰がこの先どうなっていくかわからないが、おそらくは少子化対策が地域社会を育てざるえないだろうし、地域社会の育成が少子化対策になるだろう。生涯雇用が成立しなくなったってことは、学校が労働者の生成現場としての意味を失ったってことでもあるので、子供をどう育てるかを大人が改めて考えざるえなくなっている。子供をどう育てるかを考えるのは、地域社会がどうあるべきかを考えるのと同じであるから、これからの地方自治は、国政以上に重要なテーマになっていくだろう。その胎動は、東京、大阪、名古屋、その他の小さな地方自治体でも、徐々に起きつつあるように思う。