狩野元信 天下を治めた絵師

knockeye2017-10-18

 サントリー美術館が六本木開館10周年記念展として「天下を治めた絵師 狩野元信」をやってる。もう2回足を運んだけれど、けっこう細かく展示替えがあるので、もう一度は行こうと思っている。とはいえ、会期が11月5日までなので行けるかどうか微妙だが。
 狩野元信は、のちに徳川幕府の御用絵師となる狩野派の二祖なので、なんとなく江戸時代にイメージが引き寄せられてしまうが、1477年頃に生まれ1559年に没した室町時代の絵師。ちなみに雪舟は1420年生まれとされ1506年に没している。雪村は1504年生まれ1589年没とされている。室町時代は、日本の水墨画の最盛期というらしく、日本画のコレクターとして知られるピーター・F・ドラッカー室町時代水墨画を最も好んだそうだ。
 ただ、室町時代の絵師の中には「逸伝」といって、名前だけは知られているがその素性が一切知れない人も多くいるなか、比較的その業績をたどりやすいのは、狩野派の伝統あればこそだろう。
 展覧会の副題に「天下を治めた絵師」とあるが、「天下を治める」狩野派の工房システムを築き上げたのが狩野元信だった。狩野派の始祖である父・正信の時代にはまだ「筆様」といって、宋の高名な水墨画家たちのスタイルを模していたのを、元信は「画体」という「真体」「行体」「草体」の三つのスタイルに再構築する。
 図録の板倉聖哲によると、「筆様」の段階では「テーマ、モティーフ、スタイル」が一体であった(つまり部分的にせよ全体的にせよお手本をそのまま真似ていた)のに対して、それらを分離させてあらゆるテーマとモティーフに対して様々なスタイルを適用できるようになった。「真体」は馬遠と夏珪、「行体」は牧谿、「草体」は玉澗のスタイルを咀嚼し再定義しているそうだ。そうしたスタイルの分離によって工房制作が可能になった。
 今回も展示されている、元信の初期の代表作である旧大仙院方丈障壁画の、室中の障子絵を描いたのは足利将軍の同朋衆である相阿弥だった。能阿弥、芸阿弥とともに三阿弥と呼ばれる。東山御物を収集管理したあの相阿弥で、狩野正信、元信の親子も室町幕府の御用絵師であったからには、東山御物の美意識に大きな影響を受けていたのはまちがいないのだろう。宋から学んだ水墨画に対するひとつの解答として、爛熟した東山文化の時代的要請として元信の絵があったということなのかもしれない。
 狩野元信のもうひとつの功績は、やまと絵と水墨画を融合して彩色の大画面を画いたことだった。狩野永納の『本朝画伝』には「狩野家は是れ漢にしてして倭を兼ねるものなり」と記されている。
 こうして工房システムを作り上げた画家のばあい、洋の東西を問わず、その画家個人の作家性については、すこし焦点がぼやける印象はあるのだが、狩野元信の画力はやはり並々ならぬものだったようである。

 これは≪松下渡唐天神像≫だが、梅の枝を抱えようとして少しひねった右腕の袖に目が引き寄せられる。しかし、それは、この人物像のなかのもっとも大きな空白の部分であり、その大きな空白が画面の中心にあり、松の根幹と枝が切り取る空間はその空白と相似形をなしている。鑑賞者はまず空白に引き付けられ、次に、空白の所有者としての人物、そして、その空白の反復としての空間へと視野が広がっていくが、その空間が中心の空白と相似形であるがために、鑑賞者の目は中心の空白から離れられない。まさに吸い込まれそうな絵だと思う。
 ピーター・F・ドラッカー
「室町の画家たちは、絵の対象として空間を表した最初の人々です・・・"ディスクリブション"に対し、これが"デザイン"というものです。」と言ったが、これなどはまさにその実例だろうと思う。
「デザインにおいては・・・常に最初に空間があり、そしてデザインによって余白を仕切られ、構築され、さらに限定されるのです。」