社会の脱構築と知の断絶

knockeye2017-10-28

 タイトルは半分ギャグ。
 週刊文春福岡伸一のコラムでユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』てふ話題の本を取り上げていた。読んでいて面白く、ベストセラーになるのはよくわかるが、「どうしてもある種の既視感がある」と書いている。吉本隆明の『共同幻想論』、岸田秀の『ものぐさ精神分析』、コリン・タッジの『農業は人類の原罪である』などを「読むべき本」として育った世代にとってはちっとも新しく感じないという。こうした「読書歴の断絶というか、歴史の溝というのは・・・ネットの勃興と関係しているのか」と訝しんでいた。
 関係ないかもしれないが、それで思い出したのは、週刊SPA!の対談で坪内祐三梯久美子について言っていたことで、『硫黄島からの手紙』で渡辺謙が演じた栗林忠道について、彼女が書いた評伝があるのだけれど、彼女より先に評伝も出ているし『「玉砕司令官」の絵手紙』という本も小学館が出していたのに、さも自分が発見したみたいに書いていた。実はこの対談を読むまで、わたしもそう思っていた。
 坪内祐三によると、なかでも「いちばん酷いと思ったのは」、文芸春秋の書評のなかで、武田百合子のことを「一般的にはメジャーな書き手とはいえない」と書いていることだそうだ。それは、文芸春秋の編集者がそういう書き方を許したってことでもある。
 これはつまり、本を売りたい、で、武田百合子を忘れられた作家ってことにして、それを再発見したってことにしたい、という、作家と出版社の阿吽の呼吸ってことで、それを勉強が足りないこっちはうっかり信じてしまう。
 これなんかは、ごくごく下劣な例だが、これに類したことがもっと広範囲に進行している気がする。そしてその背景には、ネットの普及で、社会の在り方が根底から変化したことがあるのではないか。どんな知性も社会が認知しなければ、ないと同じになってしまうことに、ちょっと鈍感だった気がする。
 そういう知の断絶は、日本では明治維新に確かに起こっていて、それまであった文人のネットワーク、たとえば、それをたどって、浦上玉堂は全国を遍歴できたのだし、実のところ、明治維新そのものもそうした文人のネットワークに支えられた一面もあると思うのだけれど、明治以降、それはきれいさっぱり失われてしまう。
 もっと時代を遡って、たとえばグノーシスのことを考えると、あれは、ギリシアの知性の断末魔というか、そういうものであった気がする。都市国家から帝国へと社会が劇的に変化していくにつれて、ギリシア的な知性は後退し、ユダヤ的な反知性、といって言い過ぎなら、不可知論が優勢になっていった。キリスト教を知性的に構築しようとするグノーシスの知的探求は、古代ギリシアならすんなりと受け入れられたに違いないが、中世のヨーロッパでは虚しく空を切る。社会の構造が大きく変わると、教養や知性がリセットされる。逆に言えば、教養や知性は社会のあり方に依存している。もっと言えば、現実の社会に根ざしているからこその知性や教養なのだろう。
 今という時代は、古い知性が無効になりつつも、まだ新しい知のスタンダードも認証されていない、そんな過渡期なのかもしれない。
 週刊文春小林信彦のコラムが休載しているについてはやはり御病気だそうだった。坪内祐三が「小林さんの連載が載ってないと、ヘソがない感じがする」と言っていた。