ディエゴ・リベラ

knockeye2017-11-12

 埼玉県立近代美術館に「ディエゴ・リベラ展」を観に出かけた。図録がまだできてなくて、届くのを待ってるところ。とりこみ詐欺じゃなきゃもうすぐ届くはず。そういうわけで、メキシコならではの裸婦のよいのがあったんだけど、ここでは紹介できない。
 ディエゴ・リベラというと、いまはなんとなく嫁さんのフリーダ・カーロの方が有名になっている気がする。ディエゴ・リベラフリーダ・カーロが住んでいた家は、建築ファンにも有名なものらしい。石内都がその家を訪ねてフリーダ・カーロの遺品を撮った写真集を出している。それは、遺品を管理する財団に依頼された仕事だった。そのドキュメンタリーが映画「フリーダ・カーロの遺品」になっている。今になってようやく公開されることになったのは、ディエゴ・リベラが、彼の死後、何年間か(忘れたけど)、フリーダの遺品を収めた部屋を開けないでほしいと遺言したためだった。
 ディエゴ・リベラフリーダ・カーロのパッションに満ちた関係は、今みたいに恬淡と枯れた時代の私たちにはなかなか理解しがたい。
 レオナール・フジタが日本へ帰国する途上、ディエゴ・リベラを訪ねて、その壁画に感銘を受けた。美術館や画廊ではなく大衆へ、という思いが、実は、≪アッツ島玉砕≫や≪サイパン島同胞 臣節を全うす≫などの絵を描かせることになった。21世紀の今、「大衆」などという、けっしてすべての人を指すのではなく、かといって具体的な集団結社を指すわけでもなく、にもかかわらず、イメージはひどく限定的な(つまり、誰もが自分は大衆だと思っていない)、そういう一群の存在を信じられる人がどれほどいるだろうか。
 レオナール・フジタは、≪アッツ島玉砕≫の前で合掌していた大衆に、戦後、あっさりと裏切られる。大衆という幻想は、啓蒙主義に始まる近代の欠陥そのものにさえ見える。大衆なんていない。しかし、いかにも描かされている感の強いか、無邪気に飛行機に熱中している戦争画と、フジタの戦争画が違うのは、大衆という幻想を絵が喚起するからだろう。フジタの戦争画は、リベラ、オロスコ、シケイロスといったメキシコ壁画と並べてみるべきだろうと思う。
 今回の展覧会で、北川民次の重要さに気がついた。北川民次という画家がメキシコで活動していたことは、メキシコの画家の展覧会があるたびに、いくつか展示されることで知ってはいたが、フランスに遊学していた凡百の画家とは違う面白い画家だったようだ。いつかまとめて観てみたい。