「否定と肯定」

knockeye2017-12-09


 英語の原題は、“Denial”、単に「否定」だ。原作はデボラ・リップシュタットの『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い(原題“History on Trial: My Day in Court with a Holocaust Denier”)』。ホロコーストナチスによるアウシュビッツ収容所でのユダヤ人の大量虐殺が、歴史的事実であったかどうかが、1996年(ちなみに阪神淡路大震災が1995年)に、イギリスの法廷で闘われた実話。
 何でそんな時に、しかもイギリスでそんな法廷闘争があったのかというと、デボラ・リップシュタットが、著作の中で批判したホロコースト否定論者のデビッド・アーヴィングが、名誉毀損で彼女を訴えた。彼がイギリス人だったというだけでなく、デビッドの目論見としてはおそらく、イギリスの法廷では、名誉毀損で訴えた側でなく、訴えられた側が該当の事実の真実を証明しなければならないからだったのだろう。
 このイギリスの法律は、ちょっと聞くとおかしいみたいだけれど、常識的に考えれば理にかなっている。なぜなら、名誉毀損で訴えられた側が、自分の言説が真実であると証明できれば勝訴できるから。たとえ真実を言っていたとしても名誉毀損が成立する日本の法律の方が、常識的には不可解な気がする。
 デビッド・アービングは、この法廷闘争に勝利するほどの自信があったのか、アメリカ人であるデボラがイギリスでの法廷闘争を避けると思っていたのか、あるいは、たんに公の場でユダヤ人を侮辱したかったのかわからないが、いずれにせよ、デボラがこの訴訟を受けて立ったので、この前代未聞の法廷劇か実現したわけだった。
 しかも、陪審員を立てず判事が審判をくだすという選択をしたので、アメリカの法廷劇みたいに、陪審員の感情に訴える、みたいな場面もなく、徹底的に論理、論理、論理で闘われる。ひたすら感情を抑えるデボラ・リップシュタット役のレイチェル・ワイズがよかった。
 これに関してはかなり異論があるか知らないが、私はシェークスピアの「ヴェニスの商人」をちらっと思い浮かべた。あれは悪役がユダヤの商人で真逆なんだが、その機知と常識。常識的な態度をイギリス的と呼ばなければならないのは、「常識」である以上、地域的であるのは矛盾しているのだが、事実上そう言っても差し支えなさそうなのは、王室があって、英国教会があって、身分制度も厳然としていて、しかも民主的である彼の国の事実と考え合わせると何とも不思議。制度はどうあろうが、常識はそれを現に運用する人間の側にあるってことなのだろう。