「エンドレス・ポエトリー」

knockeye2017-12-10

 アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「エンドレス・ポエトリー」は必見。リアリスティックな展開ではないにもかかわらず、2時間10分があっという間。まったく観客の目をそらさなかった。詩であり、絵画であり、ダンスであり、映画芸術への信頼を思い起こさせる。
 ことしは詩と詩人についての映画は「パターソン」に次いでふたつ目だが、「パターソン」がリアリスティックな表現のフィクションであるのに対して、「エンドレス・ポエトリー」は、極彩色の夢のようでありながら、アレハンドロ・ホドロフスキー自身の回想である。シュールと言いたくなるが、安易にシュールと言ってはならないのだろう。アレハンドロ・ホドロフスキー自身は「マジック・リアリズム」という言葉を使っている。
 シュールレアリズムは「超」という言葉でリアルに対置しているが、この映画は回想された記憶として、むしろリアルよりもリアル。リアルそのものの夢のようである。
 そんなに話題にならなかったかもしれないけど、この夏に「甘き人生」というイタリア映画を観た。相変わらずひどい邦題だが、原題は『Fai bei sogni(よい夢を)』という。フランス映画として初めてアメリカアカデミー賞作品賞を受賞した「アーティスト」でヒロインを演じたベレニス・ベジョが主人公のカノジョ。「エンドレス・ポエトリー」とは、主人公の回想という以外には共通点はないが、ただ、あれもまるで夢のように、主人公自身はすでに忘れてしまっている記憶が主題の映画だった。
 今気が付いたけど、まるで白昼夢を観ているような映画が好きかもしれない。古い話になるけれど、寺山修司の「草迷宮」とか、好きな人はこのふたつの映画もきっと好きだろうと思う。
 帰りにフライヤーをもらっていろんな人が寄せているコメントを読んでいたのだけれど、どれも弾が届いていないと感じた。映画を観たので、狙っている的はわかるけど、弾がそれてる。
 こういうフライヤーのコメントって、「いや、それは」とか「苦労して書いてるな」とかいうのが多いものだが(?)、この映画に関しては、舌足らずで空回りしているもどかしさを感じた。誰だか忘れたけど文章で書くのを断念してコメントの代わりに絵を描いていた人がふたりもいた。88歳ホドロフスキーのこのぶっ飛び方に誰もついていけてない。打ちのめされて言葉にならないのがほんとなのかもしれない。