「わたしは、フェリシテ」

knockeye2017-12-16

 いつの頃からか映画を見るときは予約するようになった。行き当たりばったりで映画館に行ってすでに満席って、平日仕事に追われている勤め人としてはけっこうショックがでかいんですよね。WEBで簡単に予約できるようになったのも大きい。
 ただ、予約にもリスクがあって、「20centuryウーマン」のときみたく電車の人身事故で映画館にたどりつかないことがある。もうひとつは寝過ごすってことがある。これは自業自得だから仕方ない。この2点のリスクはわりとあるあるかもしれない。
 今日「わたしは、フェリシテ」をネットで予約してヒューマントラストシネマ有楽町に出かけた。ところがなんか発券機が反応しない。パスワードを間違えたのかなと思って映画館の人に確認してもらったら、「お客様、メールを見せてもらっていいですか?。これ『ヒューマントラストシネマ渋谷』ですけど」と。挨拶もそこそこに踵を返した。当地で昼食をとるつもりにしてたから、なんとか間に合ったけど、席に着くのと本編始まるのが同時くらいだったよ。
 この間違いはあんまり一般的じゃないかも。わたしはときどきやるんですよね。TOHOシネマズららぽーと横浜で予約して横浜ブルク13に行ったことがある。この時はどうしようもなかった。
 フェリシテは、コンゴの小さな町の酒場で歌手をしているシングルマザー。ある時、息子がバイクで怪我して、まとまった金が必要になる。それで金策に走り回るっていう、世界中どこが舞台であってもおかしくないシンプルな話だけど、たぶんそのせいで、コンゴのリアルな日常が見える。道の真ん中に穴があって火が燃えてるのは何なんだろうとか。
 アスガル・ファルハーディの「別離」や「セールスマン」を観るとイランの今が垣間見えるみたいなことですよね。ただ、ファルハーディ作品ほど完成度は高くないと思うけど。
 でもこれは、まずは音楽の映画だと思った。主演のヴェロ・ツァンダ・ベヤの歌、そしてバックで演奏している「カサイ・オールスターズ」ていうらしい、現地のミュージシャン達が奏でる、あまり聞いたことのないリズムの音楽が心地よい。
 それとときどきストーリと関係なく挿入される、たぶん現地の人たちのオーケストラと合唱、これは、西洋音楽のハーモニーで見事なものだけれど、坂本龍一ドキュメンタリー映画「CODA」を観て、アルバム『async』を聞いた後だと、ちょっと考えさせられる。アフリカの人たちが「イマンニュエルがどうたらこうたら」歌っているのは、キリスト教は西欧諸国の侵略の斥候にすぎないと思っているのはわたしの勝手だとしても、ローマ皇帝のパロディにすぎない神とか言う奴を讃えている、お行儀のよい音楽より、酒場で歌われている現地の音楽の方がはるかに生命感に満ちている。
 そういう対比としてあのオーケストラのシーンが挿入されているとわたしは感じた。フェリシテは息子の手術のために、見も知らない金持ちの家を訪ね歩いて金を乞う。「わたしは物乞いではありません、歌い手です。息子の手術のためにお金がいるんです。」例えばバイオリン一台に注目してみても西洋音楽が金持ちのモノであるのは明らかだろう。
 で、結局、何のために、ハーモニーとかsynchronicityが必要なのか?。現地にあんなに楽しい音楽があるのに、といえば、それは支配と差別と排斥のため、色んな装飾をくっつけて、秩序と融和と教育のためと言い換えたとしても同じことだ。
 この映画はそれを声高には語っていない。何なら、そう感じたのは、またぞろ思い込みに過ぎないのではないかと疑いそうになるほど、控え目な表現である。しかし、もしそれがなければ、そもそもこの映画は作られなかっただろうと、信じておくことにする。
 ところで、坂本龍一のライブを記録した映画「async」が来年2018年の1月27日から角川シネマ有楽町で封切られる。ここははビックカメラのビルだから、ヒューマントラストシネマ有楽町とは間違えないだろうと思う。

わたしは、幸福 サウンドトラック+REMIX (解説付き)

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