バルテュスの腰巻事件?

knockeye2017-12-24

 バルテュスの《夢見るテレーズ》について「少女を性的に扱っている」として撤去を求める活動に一万人の署名が集まっているそうだ。言いたいことは3つ。まずひとつは、これは黒田清輝の裸婦をめぐる「腰巻事件」を思い出させるってこと。もうひとつは、バルテュスの絵を見て性的な連想しか感じないっつうなら、それはそういう風にしか見ないものの方に問題があるってこと。もうひとつはバルテュスの絵そのものについての回想。たぶん、順不同になる。
 バルテュスピカソが「20世紀最後の巨匠」と呼んだ画家だ。その言葉はいろいろに解釈できるだろうけれど、アートの意味そのものが急速に拡大し変容していったピカソ以降の現代芸術家と違って、バルテュスの絵はこしきゆかしい「巨匠」と呼ばれるにふさわしいものだ。まず、コピーが限りなく不可能に近い。
 大塚国際美術館っていうユニークな美術館がある。名画の数々を陶板に原寸大コピーして展示している。システィーナ礼拝堂の内部や、修復前の《最後の晩餐》を原寸大に再現しているのはそれ自体、面白い試みだと思うけど、同様にして展示してあったバルテュスやサージェントを観て、実物とは全く違うと感じた。現在の写真の技術ではまだ再現できない階調は当然ある。色の微妙さが全く再現できていない。
 サージェントのは《カーネーション、ユリ、ユリ、バラ》だが、夏の薄暮の空気感が全く出ていない。バルテュスの《美しい日々》は、鏡を見る少女の瞳に映る、暖炉の炎の照り返しが全くなかったかのようだ。
 バルテュス展で紹介されていたインタビュー動画では、バルテュスは照明に細かい注文をつけていた。たんに気難しくてそういうのでないのは、絵を観れば明らかだ。
 そういうバルテュスの絵を見て不愉快に感じるとしたら、それは、そう感じる人間がいやしいだけだ。たとえば、篠山紀信山口百恵をとったグラビア写真を美術館で観たことがあるが、かつてはグラビア誌を飾った写真であっても、美術館でそれを観て劣情をもよおすとしたら、それは、その個人の性癖が異常というだけだ。春画展でさえ、美術館で観るときは劣情を催したりしない。いうのもバカバカしい。
 バルテュスの《夢見るテレーズ》の撤去を求めている連中は、自分たちの性癖が異常ですと宣言しているようなものだ。
 黒田清輝は、日本の油絵の技術を西洋のアカデミズムのレベルに高めた人だが、《裸体婦人像》が展覧会に出展されるとき警察の検察がはいり、絵の下半分を布で覆われるという事件が起きた。一般に「腰巻事件」と呼ばれている。言うまでもなく、布で覆った側が卑しいのだ。しかし、これは1900年の事件だ。現在のアメリカでこれと同じことが起きていることをどう考えればいいのか、ちょっと言葉を失う。