浜ちゃんが黒人差別したんだって

 

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍

 

 

 なんか、大みそかにやってたダウンタウンの「笑ってはいけない・・・」に文句を言ってるアメリカ人が話題になってる。

 それにしても、大みそかにダウンタウンを観てるアメリカ人って・・・つっこんでもいい?。「日本人かよ!」。浜ちゃんじゃなく、さまぁ~ず三村っぽいつっこみだけど。

 こういう時に思うこと。一、観なきゃいいのに。二、暇なのかよ。

 想像するに、この人、大みそかに日本人に同化してぼーっとテレビ見てたと思うんだね。そこに浜ちゃんがエディー・マーフィーの物まねで黒塗りして出てきたんで、ハッと我に返ったんでしょうな。いかん、俺はアメリカ人だったって。

 しかし、浜ちゃんに限らず日本のコメディアンがエディー・マーフィーの物まねをするなら、黒塗りするでしょうね。じゃなきゃ、ビバリーヒルズ・コップじゃなくて、たんに「スタジャン着たおっさん」だし。そして、重要なことだと思うけど、そこにひとかけらの悪意もないでしょう。

 で、考えてみたいんだけど、悪意のない差別ってありうるんだろうか?。そこに差別感情がない差別は?。私はないと思うんだけど。

 って書いてたら、どこかのブログで、「どこかの人が被爆者のマネして笑ってたらどう思う?」みたいなことを書いてるわけよ。それは、原爆であれ、ほかの何であれ、「被害者」を笑う時点で悪意の極みなわけ。肌が黒いって属性は、被爆者って属性とは全く意味が違う。黒人であること自体は下劣でも悲惨でもない。黒人は差別される側にも差別する側にも立てるわけだし、それとも、アメリカの黒人が日本人を差別した歴史なんてないとでもいうんだろうか。沖縄では今でも米兵によるレイプが後を絶たないそうなんだけど。それよりこっちの方がプライオリティーが高い?。

 去年のワールドシリーズで、ダルビッシュからホームランを打ったグリエルがカメラに向かって目を釣り上げる仕草をして批判されたよね。あれって、日本人に対する差別らしいんだけど、正直言って私は何にも感じなかったんだけど。それにいちいち過剰に反応する社会が良い社会なんだろうか。

 まあ、でも、今回の場合は、大晦日のコメディ番組で、日本のコメディアンが、アメリカのコメディアンのマネをしましたってだけですよね。改めて言うけど、そこに差別感情も悪意もないのは、誰もが知ってるんですよね。にもかかわらず、それで感情を害したんだとしたら、差別感情を抱いてるのはホントは誰なの?。

 おかしな話だと思うんだよね。「それが国際標準です」っていうわけよ。さしずめインテリなんだろうけど。でも、ほとんど黒人差別と歴史的かかわりのない文化圏にまでひとつの標準を押し付けるって考え方は、それはどうなの?。変だと思わないんですかね?。悪意も差別感情もない行為を差別だと糾弾することに、何か違和感を覚えないんですかね?。それとも、単に糾弾マニアなのかな。

 それこそ、たまたま同じ頃のタイミングでテレビでやってたの見たけど、織田信長が初めて弥助と対面したときのエピソード。ロックリー・トーマスの『信長と弥助』にもあるけれど、最初、信長は肌の黒い人間の存在を信じられなくて、イエズス会の宣教師たちのプラクティカルジョークだと思ったらしく、弥助を肌ぬぎにさせて、指でこすってみた。墨を塗ってると思ったんだね。

 これ、今ならアウトだよね。でも、信長に差別感情がないのは明らかだし、弥助自身はどう思ったか知らないけど、その時彼の主人だったアレッサンドロ・ヴァリリャーノは、彼を奴隷として扱ってただけだけど、信長は弥助を大名にまで取り立てる。弥助は本能寺の変の時も、信長に仕えてたんです。

 でも、さっきの「国際標準」とやらを当てはめると、信長は弥助を差別してたことになるよね。つまんないものの見方だね。

  クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」って映画に、クリント・イーストウッドが演じる偏屈な老エンジニアが、隣に越してきたアジア系の少年に「会話の仕方を教えてやる」って言って、古馴染みの床屋に行って、そこの主人と交わす会話を「真似してみろ」っていう。少年が2人がやった通りの言葉をマネすると、「言葉遣いがひどすぎる」「言い過ぎだ」と口を揃えてたしなめられるってシーンがあった。はっきり憶えてないけど、「てめえらイタリア人はどうのこうの」「あんたたちアイリッシュときたらどうのこうの」って、会話だった。

 ひとつの文化圏で成立していることが、異文化に接するとたちまちうまくいかなくなる。そこで、一方的に価値観を押し付けるってのは、最悪なやり方だと思う。そのシーンも含めて、あの映画のテーマは融和ってことだったと思う。杓子定規に正義感を振り回すやり方は好きになれない。