「ラサへの歩き方」

 「勝手にふるえてろ」がよかったので前後したけど、ことしの映画はじめは、シアター・イメージフォーラムで「ラサへの歩き方」のアンコール上映だった。

 チベット仏教のラサ巡礼をドキュメンタリー風に撮った映画。チベットの人たちは五体投地といって、地面に身を投げ出す礼拝をしながら巡礼をする。シャクトリムシと同じスタイルで2400kmとかを進むわけだから、1年以上かかる。でも、誰も「そんなバカなこと辞めたら」みたいなことは言わない。

 チベットのこの五体投地を見るたびに複雑な気分になる。「五体投地」という言葉は、浄土真宗門徒にとっては、『観無量寿経』の文言で、罪を悟ったイダイケが釈尊に相対する懺悔の表現なので、革の前掛けと手にサンダルの巡礼姿は何か奇異に映る。その一方で、聖地の巡礼は、チベット仏教だけでなく、キリスト教にもイスラム教にもあることなので、宗教の違いを超えてもっと根源的な何かなのかもしれないとも思う。神道でもお伊勢参りや熊野詣でといった伝統があり、こうした旅を暮らしに組み込まなければならない切実な欲求は普遍的なのかもしれない。

 撮ったのは中国人の監督。ドキュメンタリーではないので、かまわないんだけど、随所にやらせが入る。途中で出産したり、交通事故にあったり、ラサでちょっとしたボーイミーツガールがあったり。年寄りが死んで、カイラス山で鳥葬したりする。

 正直言うと、ドキュメンタリーだと思って観に行ったので、なんか、ちょっと背筋が寒いというか、グロテスクな思いが残った。

 ラサ近くの峠の野営地で、家族がスマホで話すシーンがある。そのスマホは誰のスマホなのか、充電はどうしたのか、いつから持ってたんだ、とか、反疑問的に言うまでもなく、映画のスタッフに借りてるに決まってる。ドキュメンタリーならそれはそれでいいと思う。しかし、フィクションなら撮影クルーの存在を感じさせちゃまずいんじゃないかと思うが。

 細かいことを気にしているわけじゃなく、この映画が、中国本土でも300万人を動員したっていうから、ヒットしたって触れ込みなんだと思うが、チベット侵略について国際社会から非難されている状況で、いけしゃあしゃあとこんな映画を作っている、その無神経さと、フィクションなのに平気で撮影クルーのスマホを使わせてしまう無神経さがダブって見えてしまうわけ。

 中国という国の不気味さを改めて感じてしまった。「セブン・イヤーズ・イン・チベット」に主演したブラッド・ピットは、今はどうなってるのか知らないがしばらく中国に入国できなかったはずだ。それなのに、こんな映画を中国人が作っている。なんか、ラサ巡礼がまるで「田舎の奇祭」みたいな扱いだ。

 「田舎の奇祭じゃないのか?」と返されると返答に窮するが、しかし、チベットに侵攻し、ダライ・ラマを追放し、中国語教育を強要している中国人が、こんな映画を作って観てる。なんかすっごく薄気味悪い。そして、この映画を観てる自分も居心地が悪かった。

 ラサ巡礼とか五体投地の評価は保留するが、今のチベットについて考えるなら、この映画より「ダライ・ラマ14世」を観たほうがよいだろう。その映画でダライ・ラマは「今のチベットが置かれている状況は、チベットという国にとってのカルマだ。チベットの外に出て、チベットが見えるようになった。」と語っていた。ダラムサラの学校で学んでいる子供たちがけなげで立派だった。

 インドで廃れていた仏教寺院がチベット僧たちによって復興した例もあると聞いた。中国の経済発展の陰で、だんだん世界から黙殺されていくかのチベット問題は、100年単位の長い目で見ていくしかないのかもしれない。

 現在のチベットについては渡辺一枝の『消されゆくチベット』がよいと思う。キンドルにもなっている。著者の渡辺一枝は椎名誠の奥さん。前世はチベット人だったと言うほどチベットに入れあげて、何度もチベットに赴いている。

 

消されゆくチベット (集英社新書)

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