坂本龍一の設置音楽2「is your time」を観てきた。
音楽それ自体は、はじまりもおわりもなく、もっと長い時間聴いていたい気持ちだったが、ちょっと会場の換気が悪い気がした。埃っぽくて、設楽統もインフルエンザにかかる今日この頃、危険予知能力を発揮して、頃合いをはかって退散した。
はじまりもおわりもない音楽って発想は、それがこの音楽の発想であるかどうかはひとまず置いておいたとしても、それ自体、西洋音楽に対するアンチテーゼでもある。
スティーブン・ホーキングは、ビッグバンは球の表面の一点であり、神にそれを選ぶ権利はないと言ったが、神が造った聖書の時間を生きるかぎり、時間は、はじめと終わりのある線的なものにならざるえない。
そもそも無秩序な自然界の音を、音階、和音といった、ユークリッド幾何的な秩序に再編し、余剰な部分を捨象することが、つまりは西洋音楽だった。
そして、その捨象は、線的な時間という虚構の当然の帰結だった。
音楽を律してきた旋律という律法は、聖書的な時間概念に限定された、狭義の音楽作法にすぎなかったとして、線的でない時間を考えると、音楽は、時間芸術を出て、ずっと空間芸術に近づくのではないかという気がする。それを仮に線的な時間に置き換えると、時間軸方向に刻まれた彫刻のようなものになるのではないかという気がする。
坂本龍一が「津波ピアノ」と名付けた、東日本大震災の津波で流されたピアノが会場にあった。その鳴らす不規則な音は、一方で、線的なストーリーを背景に持ちつつ、一方では、旋律を解体する、境界に立つものの魅力で人の耳を惹きつけるのだと思った。
空間芸術としての音楽が、単にある場所にBGMが流れているというのではなく、レコードに針を落としてから、それが上がるまでとか、テープが左のリールから右のリールに巻き終わるまでとかを離れた、線的でない、二次元、三次元の立体感のある表現として可能かは、面白い試みだと思う。
野村仁の、五線譜と月を二重露出した《'moon' score》や鳥の飛ぶ姿を五線譜に移した《'Grus'score》を思い起こしながら聴いていた。
あれは、五線譜という装置を使って、空間を音楽に置換していたが、たぶん今ならもっと高速に処理できるはずで、見たものを音に変換するレンズがあったら面白いだろうなと思った。