横浜美術館でNUDE

 横浜美術館に、テートギャラリーの所蔵品から「NUDE」にテーマにした展覧会が巡回している。2016年から世界を回っていると聞いてピンとくるのは、2015年に永青文庫で開かれた春画展で、あれももともとは大英博物館で2013から2014年にかけて好評を博した展覧会だった。
 その一年後にテートギャラリーがキュレーションしたこの展覧会が、春画展から何らかのインスピレーションを得ていると考えるのも無意味じゃないだろう。
 春画展について言うと、だんだん浮世絵を鑑賞していくと、やはり、春画を観ないとものたりなく感じてくる。
 特に、喜多川歌麿葛飾北斎については、春画といわれる絵の中に、間違いなく観ておくべき絵がある。まあ、歌川国芳春画を見なくてもいいと思うが、 歌川国貞なんかはやはり春画を見ておきたいと思う。
 春画が芸術であるかどうかは、そもそも浮世絵が芸術と認知されているなら、春画もそうに決まっているが、私としてはむしろ、春画がポルノだったのかどうかの方に興味がある。江戸時代の人たちにとっての春画がどういうものだったのかが感覚的につかめない。
 古典落語が江戸時代の笑いを伝えているのなら、今の私たちもそれを大いに楽しんでいるといえる。歌川国芳の絵は楽しいし、九紋龍史進はかっこいい。歌川広重の風情は懐かしい。喜多川歌麿の女たちはオシャレであだっぽい。ところが、春画となると、当時の人たちがこれをどう楽しんでいたのか、なぜかあやふやになるのは、たぶん、芸術についてはどこかの誰かが「これが芸術だ」と言うなら、「ああそうですか」で流せるものの、ポルノとなると、赤の他人に「これがポルノだ」と言われても、言った方も言われた方も変な空気になる。
 黒田清輝の《朝妝》はフランスのサロンに入選を果たした裸婦画だったが、日本で展覧会に出品したときには、新聞が撤収を求める記事を書いた。このとき、黒田が親友の久米桂一郎への手紙に「裸体画を春画とみなす理屈が何処にある」と書いた、明治のころの「春画」という意識ですら、ポルノという意味なのかどうかあやふやな気がする。
 黒田清輝の「裸体画は春画ではない」という意識は、当時、フランスのアカデミズムに正当なものだったに違いない。幸か不幸か、黒田清輝に続く日本の画家たちがそのアカデミズムを共有するのに間に合ったことをこの一連の騒動が示している。
 というのは、黒田清輝が《朝妝》を描く30年前に、すでにエドゥアール・マネが《オランピア》や《草上の昼食》を描いて、フランスのアカデミズムの正当性に挑戦していた。
 そして、そういう挑戦のきっかけのひとつに日本の浮世絵があったことは間違いないので、ここでもまた、日本人は西洋と東洋の伝統の絡み合う現場に、たぶんそうとは知らずに、立たされてしまっていたわけだった。
 先日読んだ吉田健一の本に、来日していたアンガス・ウィルソン

日本の文学では性欲のことを扱って何故それが野卑な感じを与えないのか

と問われたときに

日本にキリスト教というものがなくて、人間を魂と体の二つに分け、体を罪深いものとする習慣がないこと

が根本的なんじゃないかといった答えかたをしたと書いていた。
 日本にはもちろんキリスト教の伝統がないが、一方で、NUDEを理想美とした古典古代のギリシアにもキリスト教はなかった。
 つまり、日本だけでなくヨーロッパの伝統も、実は、相反するいくつかの潮流がせめぎあっている。
 ボッティチェリのことを思い出してもいい。《春》や《ヴィーナスの誕生》を描いたボッティチェリが、晩年はサヴォナローラのくだらない教条主義に傾倒して、どうにもさえないことになってしまう。その後、ヨーロッパは 19世紀末までボッティチェリの存在を忘れてしまう。
 しかし、キリスト教はそれが抑圧的であったとしても、ヨーロッパの礎を築いたにちがいないので、キリスト教と古典古代のはざまで、ヨーロッパの人たちの意識が揺れることは当然なのであるが、現代の日本人を引き裂いている西洋と東洋の価値観という分裂は、これは、さらにねじれていて、そして、そのねじれについて、半分くらいは故意にか、無視しようとしている。
 具体的に言えば、黒田清輝の裸体画を批判した新聞や撤去しようとした警察の態度は、アンガス・ウィルソン吉田健一が議論したような意味で日本的なのかといえば、そうではないことが分かる。では、西洋的なのかといえば、これは西洋のアカデミズムの立場に立っている黒田清輝が西洋的なわけだから、これもちがう。
 個人的な見解としては、彼らはただバカなのである。明治のマスコミと官憲の精神的態度を、現代のマスコミと官憲もそのまま引き継いでいるとすれば問題だろうとおもう。価値の基準が事実上恣意的だからである。ヘアが写っているかいないかに何の意味があるのか、誰も答えられない。もちろん意味がないからだが、その無意味な規制が現実にまかり通る社会はグロテスクなのだ。
 今日、美術館の帰りに公園を通って帰った。外国人の家族がサッカーボールで遊んでいた。私はおひとり様なので端の方を邪魔にならないように歩いている。それでもすれ違うときにぶつからないようにはアイコンタクトするのだけれど、そのとき、その白人男性が「咎められないかな?」というか「文句言わないでほしいな」というような目をした。
 一瞬「え?」と思ったが、ふとみると「球技禁止」という立て看板があった。もうほんとため息が出るくらいばかばかしい。そういう国である。
 「NUDE」は、その言葉を定義したケネス・クラークからすでに、キリスト教の抑圧と古典古代の明るさのあいだで揺れている。ケネス・クラークは裸を「NUDE」と「naked」に分けて定義した。それが論考に有効だったに違いないとしても、裸体を描くことが常に挑発的であり続ける背景に対立する価値観があり、そして私たち自身も、そのどちらかの価値観につくことはできず、その対立に引き裂かれている。だからこそ、NUDEを描いたり観たりすることがこれからも人を惹きつけ続けるだろうと思う。