『修道士は沈黙する』

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 ロベルト・アンドー監督の『修道士は沈黙する』をBunkamuraル・シネマで。
 G8蔵相会議が舞台となっている。その発想自体がイタリアらしいと思えてしまう。日本人はまず思いつかないし、ハリウッドでは、なおさら無理なのは、ロシアの潜水艦の中でも、清王朝でも、みんな英語を話してるって感覚なので。
 この映画では、イタリア語、フランス語、英語の台詞。ドイツのハイリンゲンのホテルは実際に蔵相会議に使われたところだそう。
 ただ、実際の蔵相会議にどの程度取材して、どの程度忠実に再現しているのかはわからない。たとえば、ドイツの蔵相とカナダの蔵相がセックスするのだが、G8の蔵相たちがそのくらい親密で自由でいられると自然に発想できるのが、ルネッサンス以来のイタリアの国際性かなと、極東の島国で勝手に想像してしまうわけ。
 G8の蔵相会議に先立って、IMFの専務理事の誕生パーティーが開かれて、そこに、理事の個人的な招待で、主人公の修道士が招かれる。
 台詞でもふれられているが、ヒッチコックの『私は告白する』の設定を一部借りているらしい。誕生パーティーの翌朝、専務理事が死体で発見される。生前の彼に最後に会ったのは修道士だが、告解の内容について、修道士は他言することができない。
 IMFの専務理事と修道士は何を話したのかが、ドラマを動かしていくエンジンなんだが、これはつまり、世俗の王と聖者の対話なわけである。
 ネタバレってほどでもないが、ドイツの蔵相がつれているルドルフって犬が最後に修道士になつくところなどは、キリスト教徒なら、ライオンを連れた聖ヒエロニムスを当然思い出すわけなんだから、その時点でリアリティーの底が割れるというか、おとぎ話だなと思ってしまった。
 もちろん、おとぎ話でいいんだけれど、ただ、そういう王様と聖者のような図式が、現代にもまだ生きているなら、そういう感覚はうらやましいと思ったし、日本にもそういう何かがまだ生きているかなと自問してみたりした。
 世の中がなんとなく行き詰まる、聖者が王様と話をする、そして、とりあえずの危機が回避される、みたいな映画なんだが、私たち日本人は、修道士もそうだけれど、G8の方にも、大した権力も感じていないと思う。
 『スポットライト』っていう、カトリックの多数の神父が、少年たちにsexual abuseを働いていた実態を暴いた、新聞記者たちの映画があったんだけど、その中で、マーク・ラファロの演じた記者が、
「変な感じだよ。たしかに、とっくの昔に教会には行かなくなっていたけど、いつかは帰るだろうと思ってたんだ。」
それが無くなってしまった気分だと言う。
 信仰のよいところのひとつには、そういった、こころの帰る場所が、世界のどこかに担保されているという気分があるだろう。それだけではないかもしれないが。
 信仰の悪いところは、イスラム教徒とユダヤ教徒の殺し合いを見れば、いちいち説明する必要もないけれど、それでも、世界が推進力を失って方向性を見失っているときに、心の拠り所となる幻想の存在は、懐かしかったり、羨ましかったりする。
 そういった伝統の存在が、イタリアにあるように、日本にも他の国にもあるのだが、それをこんな具合に、なかなか見ごたえのある映画にして、世に出せるあたりが、成熟度と言えることなのかもしれない。その意味では、こないだの、スピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』にもそういう成熟度を感じた。言論の自由ベトナム戦争など重い問題をあつかいながら、映画としての娯楽性を失っていない。
 スピルバーグが『レディープレーヤー1』のプロモーションで13年ぶりに来日していた。この映画との共通点というと、奇異に響くかもしれないが、自由、平等、博愛といった、日本も含む近代の社会が築き上げ、守ってきた幻想を回復しようとする試みと、大きく捉えることもできる。
 社会の内外から、さまざまな挑戦を受けて、泥にまみれたにしても、私たち、近代を経験した社会の心の帰る場所として、そうした幻想はこれからも守られていくべきなんじゃないかと思うのだ。もちろん、日本にも、アメリカにも、イギリスにも、フランスにも、イタリアにも、他のどんな国にも、それぞれの歴史に、消せないシミのような部分はある。
 しかし、その汚れたところを強調するのも、また、幻想にすぎないわけで、にもかかわらず、汚れた方の幻想を「現実」と呼ぶのは子どもじみていると思うのがいまの私の気持ちである。