横尾忠則の冥土旅行

 実家が近いので、横尾忠則現代美術館にはよく出かけるが、いつの展覧会でも必ず新作が展示されている。もともと多作な作家なので、初めてみる絵がほとんどだし、いつも楽しい気持ちになる。
 今回は、「横尾忠則の冥土旅行」という企画で、絵も素晴らしかったが、なんと言っても、ウイリアム・ブレイクの「神曲」と、横尾忠則が1970年代に平凡パンチに発表したヌード写真のコラボが圧巻だった。
 『神曲』はダンテの冥土旅行なわけだから、ここでは、横尾忠則がダンテに導かれて冥土を巡っているのかも。






 多角形に区切られた空間の外側のパネルにウイリアム・ブレイクの「神曲」を引き延ばしたものに、ギュスターヴ・ドレが『神曲』の挿絵に描いた絵を引用した自身の絵を掛け、内側は女性の集団ヌードになっている。そして、ところどころに穴があいている。
 多作な作家なのでこうした化学反応を起こすことができる。デヴィッド・ホックニー草間彌生もそうだけれど、絵を描く人は絵を描き続ける。コンセプチュアル・アートがどうたらこうたらいう人たちは、展覧会があれば、便器を置いてみたり、小便を置いてみたり、椅子と椅子の絵を並べてみたりして、それで、歴史に名を刻んだつもりになっているだけ。彼らが生涯でやったことといえばそれだけ。あとは、評論家とキュレーターとのパーティーでその思い出を反芻しあっている。
 もちろん、美術史を余さず渉猟した上で、専門家がたどり着いた結論が、便器を展覧会に置くことであったのならば、それこそがアートの真髄なんだろうけれど、絵を描く、そしてそれを観るという原始的なことに、今なお新鮮な感動を覚えるのだから、コンセプチュアル・アートももちろん良いけれど、ラスコーの洞窟壁画から横尾忠則に至るまで人類が続けてきた営みを「ただの高価な壁の装飾」と否定するつもりにはならない。
 あるいは、「ただの壁の飾り」があるからこそ展覧会があるので、その展覧会に便器を置くからこそ、それがアートに見えるので、道端においていたら撤去されるだけ。か、運が良ければ、サインした人のもとに届けてくれるかも。
 それはともかく、四階に『東映クロニクル』という本に寄せた横尾忠則のページが展示されていて、これが面白かったので、ここに上げておく。ちなみに、言うまでもなく、この美術館は撮影可になっている。

 オリジナルサイズを拡大していただくと全文が読めるが、東映ヤクザ映画が次第に衰えていくのは、ファンが、それを反権力の象徴や政治的なメッセージとして扱ったりするうちに、だんだんつまんなくなった。
 横尾忠則自身も、「自己実現のメデイアとして高倉健を描き、そして語った。ぼくが作品によって高倉健を私的領域に持ち込めば持ち込むほど、なぜか彼らは社会的記号化していった。そんなところにぼくはモダニズムの盲点があるように思った。そしてぼくは徹底的にデザインの私化を貫くことに興味を覚えた。」
 こういったことが、絵という現場で実践されている。それが、横尾忠則って人のすごさなんだと思う。