サヴィニャック展

 練馬区立美術館で、これはもう四月のはじめころなんだけど、サヴィニャック展、「パリにかけたポスターの魔法」を観た。意外にすごく盛況で図録を買うのにずいぶんならばなければならなかった。

 残念ながら撮影禁止だったんだけど、もとはと言えば町中に貼ってあったポスターだから、どうなんだろうと思いはした。
 そんなこと言いだすと、ロートレックだってそうなんだけど、でも、三菱一号館ロートレック展は、一部撮影可だった。
 それはいいとして、ポスターそのものは、「なつかしさ」がその魅力の主成分かと。でも、よくみると洗練されている。

 扱われている商品は、ボールペン、せっけん、お水、冷蔵庫、マットレス、ストッキング、絆創膏、それこそありとあらゆる日用品に加えて、ルノー、ヴェスパ、ダンロップといった国際的な企業まで。それに、日本の森永チョコレートやとしまえんのポスターまで手掛けている。
 こんなに、なにからなにまでサヴィニャックで広告戦略として成立しているのかと疑問に感じてしまう。ロベール・ドアノーが撮った当時のパリの街角の写真を見ると、商品はちがえど、全部サヴィニャックのポスターっていう、今の感覚だと不思議な壁が写っている。今のテレビCMにたとえてみると、すべての商品のCMキャラクターがみんないっしょみたいな。
 当時、別に広告に差別化図ろうとかする企業もなかったんだと思う。今は、広告業と言えば花形企業で、広告が企業の利益を左右すると誰もが信じている。それって逆に言えば、製品じたいの品質とか信頼性は、企業価値にとって二の次になっていることになるだろう。
 むしろ、製品の品質や信頼性という領域には、一般の消費者がアクセスできないともうあきらめてしまっていて、その代替手段として、広告のセンスで企業価値を推し量ることが、消費者にできるせめてものことだと、それが常識になっているってことなんだろう。
 だから、原発事故があると、原発のテレビCMをやっていたタレントがしばらくほされるみたいな奇怪なことが起きる。経営者は責任を取らないのに。
 サヴィニャックのポスターを観ていると、そうじゃなかった時代、企業と消費者が「牧歌的に」つながっていた時代を懐かしむ気分になる。そんな時代があったのかどうか覚束ないのだけれど、サヴィニャックの絵にはそれを思わせる力がある。
 当時、日本にいたわたしたちが、サヴィニャックのポスターを見て、フランスのせっけんを使いたいと思ったとすれば(当時の人がそう思ったかどうか知らないけれど)、無意識にでも、そこに、消費者と企業が信頼でつながった文明を見ていたのだと思う。そうだったかどうか全然知らないが、そう思わせるのがサヴィニャックの絵の魅力なんだろうと思う。
 この展覧会に来ている人は、おそらく、今、サヴィニャックのこんなポスターが広告として成立するとはだれも思わないだろう。だからこそ、美術館で展示されて、それを見にこんなに人が集まるのだし。
 ジタンもルノーもヴェスパもオリヴェッティも、みんなサヴィニャックのポスターなんてことがもう二度と起こりえないことだと知っている。
 今、私たちは、企業の広告が、もっとしたたかで、もっと戦略的で、したがって、私たち消費者がそれに打ち勝てる手段がないことをよく知っている。広告は、それで企業同士がしのぎを削っている武装なのだということもよく知っている。
 もう二度と戻れない時代、しかし、ちょっと振り向けば、ほんの昨日くらいだったのに、もう手が届かない。しかも、それがこんなにやさしく明るい。それが、サヴィニャックの展覧会にこんなに人が集まる理由なんだろうと思う。