『犬ヶ島』

 「小説は物語からの後退」という吉田健一の言葉を紹介したが、近松秋江などの私小説をそうした「小説」の最たるものだとしたら、『ムーンライト・キングダム』や『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソンの映画はまさしく「物語」だなと思っていたら、「シネマトゥデイ」の監督インタビューに答えて

映画づくりの意義について、「僕にとっては、物語を伝えることかな。目の前にある現実を忘れさせ、どこかに連れて行ってくれるようなストーリーを描きたいといつも思っている。」

と。
 『犬ヶ島』は、最初は、犬とゴミの島のモチーフだけだったそうだが、そこに日本っていうモチーフが加わって企画が動き出した。
 昨年の『KUBO』もそうだけど、最近になってようやく日本や日本人が、西欧の映画に出てきても違和感を感じなくなった。むしろ、「日本愛」がどうたらこうたらと書いている映画評の方に違和感を覚えるくらいで、日本が描かれていてもフツーに見られる。
 フツーに見られるってことが「日本愛」なんかよりずっといいことだと思う。その方が、観客として、日本について新鮮な発見をすることもできるし、作る側にいる人たちにとっては、表現の幅が広がることになるのだろう。
 思い出してみれば、1989年の『ブラックレイン』では、高倉健はともかく、松田優作若山富三郎のヤクザには何か違う感じがしたし、1987年の『太陽の帝国』の、伊武雅刀ガッツ石松はよかったけど、片岡孝太郎の特攻隊兵士は変だった。
 こう考えてみると、ヤクザとか特攻隊とか、作り手が日本を強く意識してる部分は、あざとくなっちゃうんだろう。これは、日本云々でなく、作り手の意図が透けて見えてしまうと、しらけるってことだけなのかもしれない。
 『犬ヶ島』は、日本愛よりは映画愛と思って観るべきだろう。ストップモーションアニメの何が楽しいかというと、『KUBO』の場合は、アングルも多彩だし、背景も奥行きがあり、折り紙を使ったり、海の表現など、まるで実写のようなリッチな表現が魅力だったが、対して『犬ヶ島』は、ミニマリズムは言い過ぎだが、独特の省略表現が楽しい。たとえば、犬同士の喧嘩の描写など、ロイ・リキテンスタインみたいなセンスの良さを思わせる。
 少年が乗っている飛行機もあえてギクシャクさせてる。犬たちが島を移動していく過程も直線的にしている。ストーリーも簡潔で、しかし、印象深い。それを日本的と呼べば呼べるかもしれない。

 これは、俵屋宗達の《伊勢物語図色紙 武蔵野》だが、この簡潔な表現の美しさと通じている。
 オノ・ヨーコが声優をしている博士の助手から、血清を受け取るのがなぜかバーだったりする、その辺り。
 スジとは何の関係もないが、少年が演説で俳句をよむのを聞いて、やっぱり俳句は詩じゃないんだなぁと思った。俳句には、人を巻き込んでいくような力はない。だからこそ、笑えたけど、ロラン・バルトが俳句を「意味の中断」と言ってたのは鋭かったなと思った。

俳句は禅の文学的な枝葉にほかならないのだが、禅のいっさいはこうして《言葉を停止させる》ための途方もない鍛錬(略)言語に「見切りをつけること」なのであり(略)言葉の独楽を停止させることなのである。

 だから、この映画の少年のように、政治的な変革をもたらそうとすると、私たちの伝統は言葉を用いにくいということでもあるのかなと考えた。それでも、ここ最近でも何度か変革が起こったわけだし、結局、それを少なくとも、現実の勢力に育てられる政治家がいないことが問題なんだろうと思う。
 小沢一郎のように、選挙後1週間で公約を反故にする政治家が長く日本の政局を左右したことは、国家的損失だった。「失われた20年」とか、もしそんなものがあるなら、その20年が棄ててあるのは小沢一郎というドブの中である。
 小泉政権時代に、ようやく出来上がったかに見えた政策の対立軸を、麻生政権とその後に続く民主党政権がグダグダにしてしまった。政権党が代わっても、結局、官僚の言いなりなら選挙する意味はない。自民党のままでいいということになる。
 安倍政権の重箱の隅をつつくようなことばかりで、自分たちの理念も政策も示さない。消費税を上げたのも、原発事故をうやむやにしたのも、尖閣を国有化したのも民主党だ。ほとぼりが冷めたとでも思ってるんだろうか。
 過去を総括しろとまで言わないが、すくなくとも、今の自分たちが何者なのかくらいは示してくれないと、何者でもない者は支持できない。今のところ政党助成金にたかってるごくつぶしでしかないことは自覚してもらいたいものである。