『ゲティ家の身代金』

 リドリー・スコット監督は、強い女をセクシーに撮るについての、深い欲求があるんだと思う。
 今回の場合は、それが、息子を誘拐されたバツイチ女盛りの母親で、ミシェル・ウィリアムズが演じている。今までこの女優さんをセクシーな目で見たことがなかったんだけど、リドリー・スコットが演出したせいだと思う、けしてわたしの体調ではないと思うが、ひどくエロティックに見えた。とくに、そういうのを狙ったシーンがあったわけでもないのに、たぶん、女性が窮地に追い込まれつつ、絶望的な戦いに身を焦がすってことに、無上の喜びを感じるんだと思う、わたしではなく、リドリー・スコットが。
 それに、もうひとつ、メロンに生ハムを乗せるような絶妙な味わいを添えているのが、クリストファー・プラマーの演じたごうつくじじい、ジョン・ポール・ゲティ。大金持ちであるにもかかわらず、誘拐された孫の身代金要求額1700万ドルの支払いを断固拒否。最終的に、税控除が認められるギリギリまで値切ろうとした挙句、税控除が認められない部分は、息子に利子をとって貸し付けた。だから、本人は1円、1ユーロ、1ドルたりとも損してない。
 だから、誘拐犯も、金持ちだからといってやみくもに誘拐しても、孫がひとりくらい死のうが生きようが何でもないし、それを世界中から批判されようが、痛くもかゆくもないってレベルの金持ちになると、かえって面倒なことになるって教訓になるだろう。
 金を奪い合うのは貧乏人同士ですることで、金持ちからは金を奪えないのだろう。
 誘拐された孫は、いったん自力で脱出するんだが、警察に駆け込むと、警察官からマフィアに連絡がいって、連れ戻されてしまう。
 それで思い出したけど、確かに、昔は、イタリアってこういうイメージだった。イタリア、韓国、NYなんかは、婦女子が迂闊に出歩けない、怖いイメージだった。いつの間にか、そういうイメージじゃなくなっているのが不思議な気がする。
 今、イタリアというと、食べものがおいしくて、老舗のブランドがいっぱいあって、オシャレで、気さくでってイメージ。
 どっちも実際には知らないんだけど、パブリックイメージに支配されてしまっていることに、改めて気づかされる。
 ジョン・ポール・ゲティの役は、もともとケヴィン・スペイシーで撮り終わっていたそうなんだが、例のme tooがらみのゴタゴタで、急遽、クリストファー・プラマーで撮り直した。却ってよかったって気がする。ケヴィン・スペイシーは、若すぎ、だてすぎって気がする。『アメリカン・ビューティー』の印象が強いのかも。でも、メロンにのせる生ハムとしては、クリストファー・プラマーの方がコントラストが効いていると思う。クリストファー・プラマーは、最近では『手紙は憶えている』がよかった。
 このクリストファー・プラマーの代役騒ぎがプロモーションとなった一面はあると思う。その意味では、こないだの『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています』の大谷亮平も、小出恵介の淫行騒動で急遽代役に立ったそうだった。あの映画は、シナリオの詰めが甘いと思ったけど(mildな言い方をすれば)役者さんたちのお芝居はよかった。大谷亮平もそうだけど、安田顕浅野和之品川徹。他の人が悪かったわけではないけど、演技でカバーできる限界もあるから。