『私はあなたのニグロではない』

 このタイトルの意味が最初は曖昧だったが、なるほど「ニグロ」は、白人が作り上げた架空の概念で実際には存在しない。白人が、木に吊るしたり、「ニグロ」を殴っているとき、実際に殴っている相手は人間なのだ。
 木に吊るされているのはモノクロームの写真だが、警官が殴っている動画はスマホで撮影されたものだ。ジェームズ・ボールドウィンの発言を聞いていると、「あれ?、いつの発言なんだろう?」と少し混乱する。黒人の大統領が誕生した、その後の時代を私たちは生きているのに、言葉の重みが全く変わらない。「そんな時代もあったんだね」みたいな遠い思いにはとてもなれない。映画を観た後に検索して驚いた。ジェームズ・ボールドウィンは1987年に死んでいた。
 ジェームズ・ボールドウィンが、メドガー・エヴァース、マーティン・ルーサー・キングJr.、マルコム・Xという、いずれも暗殺された年少の友人達について書いた、30枚ほどの未発表原稿を基にラウル・ペック監督が撮ったドキュメンタリー。
 キリスト教会にも、ブラックムスリムにも、ブラックパンサー党にも属さず、常に個人として活動してきたことで、結果として、目撃者、証言者となった。自己を限定しなかったので、言葉の鮮度が落ちないのだと思う。黒人の大統領が誕生しても何も変わらないだろうことも予見していた。「大人しくしていれば、いつかは大統領にしてやるというだけのことだ」と。
 テレビ番組で、ジェームズ・ボールドウィンと共演した白人の識者が「教養のない白人より教養のある黒人の方に親近感を感じる。人種によってどうこうということは感じない。あなた自身もそうであるはずだ。」と、これは、内心に差別心がない人間にとってまったくの本音だろうと思う。ボールドウィンはそれに答えて「論点はそこにはない。私がフランスにいる間は、殺される恐怖を感じずに暮らせるが、アメリカにいると、いつ殺されるか怯えていなければならない。」
 そのような状況が放置され黙認され常態化している、そのことが問題なのであって、もはや人種問題ですらない。ましてや個人の良心の問題などではまったくない。警官が市民を気の向くままに殺しても見過ごされる国は異常な国だろう。人種問題という論点は差別主義者をのさばらせる根拠を与えるだけなのだ。
 街角で警官十数人が寄ってたかってひとりの男をめった打ちに殴りつけている、その動画を見て、「でもこれは正当防衛かもしれない、なぜなら、相手は黒人だから」と思うとしたら、それが差別なのである。
 マルコム・Xやマーティン・ルーサー・キングの実際の映像を、殺された人の顔を見ることには意味がある。殺されたのは「ニグロ」ではない。ジェームズ・ボールドウィンはそれを見届けた。そうした目撃者としてのジェームズ・ボールドウィンに視点を置くことで、マルコムXマーティン・ルーサー・キングそれぞれを主役にするよりも、エモーショナルな要素が廃されて、ずっと思索的なドキュメンタリーになっている。問題の根深さが正確に理解できる。

 「私はあなたのニグロではない」は「私はあなたの『日本人』ではない」とそのまま言い換えられる。上から目線で黒人に同情していられない。沖縄で行われていることはまさにその構図なのである。人種問題がいかに架空のものであるかは、沖縄では黒人もちゃっかりと殴る側に回っている。
 差別意識そのものは問題ではないと言えるだろう。あなたが全人類を愛せなくても自分を責めなくていい。あなたの内面がどんなクソ野郎であっても、他人は誰も気にしない。税金で食わせてやってる警官が市民を殴り殺しているのを見て、「この問題は白人全体で共有しなければならない」とか言ってるのは呑気すぎる。
 近代以降の日本人は、殴る側にも殴られる側にも立ってきた。強いものに殴られ、弱いものを殴ってきた。だから、それが政治であり、現実であると思っている人も多いかしれないが、近代以前の日本の少なくとも価値観はそうではなかった。だからこそ日本は開国できた。日本を滅亡に追い込んだのは、近代以降の国粋主義だったことは心に留めておくべきだと思う。
 監督のラウル・ペックは『マルクスエンゲルス』という映画の監督でもあるので、「疎外」についてじゅうぶん意識してこのタイトルをつけていると思う。私たちは歴史的な経緯から、今でも時には殴る側に、時には殴られる側に立たされる。その時に「疎外」について考えるのは有効だと思う。個人のレベルでそのような疎外を脱するのは十分可能だと思う。フランスやイタリアのような、どちらかといえば個人主義的な地域では差別が起こりにくく、ドイツや日本のようなどちらかといえば社会主義的な地域ではそれが拡大しがちなのは、エマニュエル・トッドが、各地域の家族観の違いから詳しく論じている。
 正しさの根拠を全体ではなく個人に置くことで、誤った判断を避けられる場合が多い。「全体」は概念にすぎない。「全体」の線引きをどこに置くかで、その内容はガラリと変わってしまう。多くの人は、自分の都合の良いところに線を引いているにすぎない。そんな「全体」に個人を捧げる必要はない。