『《民主》と《愛国》 戦後日本のナショナリズムと公共性』

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

 今年のお盆休みは長かったので、読もうと思いつつ、そのままになっていた小熊英二の『《民主》と《愛国》 戦後日本のナショナリズムと公共性』を読んだ。
 「民主」、「愛国」、「市民」、「ナショナリズム」などの言葉が、戦後日本の思想家たちそれぞれにとって何を意味していたか、また、戦後直後の10年、さらに10年と時代が移る中で、どのように捉えられてきたかを、徹底的な文献の読み込みと比較によって明らかにした力作で、分厚さにビビって先延ばしにしていたのが、こんなに面白いなら、もっと早くに読んでおけばよかったと思った。
 ただ、個人的には、このブログには書かなかったけど(たぶん書けもしなかったが)、先に、ロラン・バルトのいくつかの著作、
エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

を読んでいたのが、よい準備になった。
 つまり、戦後日本の重要なキーワードである「民主」や「愛国」などの言葉の意味が、それぞれの思想家がどう戦争を体験したかによって全く違う、時には真逆だったりする。戦争体験を共有する者どうしなら、あまりにも明白ですぐに分かり合えることが、世代が移るとまったく通じない。
 それは、社会の変化があまりにも速すぎるせいもあるが、やはり、戦争体験が誰にとっても悲惨すぎ、そして、それが各人の思想の根っこの部分であるために言語化が難しい、事実上不可能だったという事情があり、後の世代に受け継がれなかったということがある。
 しかし、だからこそそこに思想が生まれたのだから、そうした混乱は、彼らのことばを、辞書の言義で裁断していったのでは、戦後日本に人々が共有した思想について、今の私たちは理解できない。だから、「市民」や「ナショナリズム」などの重要なキーワードが、さまざまな言説の中で、どのような表徴なのかを網羅的に検証していくことが必要であり、有効であり、そして、その面倒で、強靭な想像力を必要とするその作業に挑戦して成し遂げたのがこの本である。
 それがいかに有効であるかは、60年安保の時にだけ、なぜ日本人が世代を超えて結集できたのかが、それで、見事に解きほぐされることでも証明できる。各世代の言葉にできない思想の波長が、奇跡的にピタリと重なったおそらく二度とない瞬間だった。
 この本は、現在の政治的なさまざまな発言を検討するためにも是非読んでおくべきだと思う。