『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』の感想のそのまたついで

 小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』だが、ちょっとした違和感は感じなくもない。

 それは、『戦争が遺したもの』という、鶴見俊輔上野千鶴子小熊英二の鼎談でもふれられていたが、吉本隆明についての評価が辛い、と上野千鶴子は書いていた。し、鶴見俊輔も、吉本隆明丸山眞男が対立した時は「困った」と語っていた。鶴見俊輔は、デモの混乱の中で、偶然、吉本隆明と出くわし、一瞬、視線を交わしたそうだ。そういう瞬間に掴んだ印象は、その後にその人に対する評価のコアになるもので、それこそ「対幻想」なのかもしれないが、言論上で対立することがあっても、そういう人間的な信頼は傷つかない性質のものだと思う。

 吉本隆明丸山眞男の「抑圧の移譲」について、批判している文章を読んだことがあるが、そんなに説得されなかった。むしろ、首を傾げたと言った方が正しいかも。「何を批判することがあるんだろう?」とおもったわけだったが、今回の読書で、勝手に腑に落ちた。要するに、吉本隆明は、70年安保を何とかしたかったのだろう。結果からすれば、酷いことになったのだけれど、それでも、何とかしたかったのだろう。それで、少し上の世代に対する苛立ちってことになる。そういうことだったんだなと、まあ、これは、勝手にそうおもった。

 それと、もう一点は、石原莞爾の名前が、ちらっと出てくる。戦後日本の思想とは関係ないと思ってかまわないのだろうけれど、ただ、これも勝手な思いだが、小熊英二って人は、日蓮派か、親鸞派かと、それこそ、犬派?、猫派?、くらいのラフな分け方をすると、日蓮派なんだなっておもったわけだった。それも、吉本隆明に対する評価の辛さと関係あるんだろう。

 ただ、まあ、私個人は、石原莞爾って人は、日蓮主義っていう、そもそも日蓮宗日蓮正宗、どちらかと関係があるのかないのかわからない、カルトとしか言いようのない妄想を根拠に、満州事変を、つまり、15年戦争の端緒を開き、錦州では、無差別爆撃を行なったわけで、この人に戦争責任がなかったとは到底思えない。東京裁判の時に、

「錦州方面の爆撃についてですが(略)多少弾丸が他に散ったかもしれませんが、しかしこれを前欧州大戦において独空軍が行った「ロンドン爆撃」、或いは今次大戦における米軍「B29」等の日本都市爆撃とか、広島・長崎における原子爆弾投下の惨害に比したならば殆ど問題にならない程であったと確信いたします」

と言った、私はこの発言は、非常に卑しいとおもうし、戦争が終わった時に、こういう発言をする人間が、戦争を始めたについては憤りを覚える。

 宗教について、話がややこしいのは、石原莞爾と事あるごとに対立した東條英機が、巣鴨プリズンに拘留中に、浄土真宗に改宗している。これなんかは、取りようによっては、無節操もいいとこだろう。でも、浄土真宗って、多分、そういう宗教なんだろうと思う。いずれにせよ、戦争を始める側には立たない。

 日蓮主義と今の創価学会が、ホントに決別しているのかは、警戒していなければならないと思っている。「国立戒壇」とか、「天皇の帰依」とか、そういう発想は、浄土真宗では、良くも悪くもありえない。天皇が帰依したらエライのか?。そういう風に、政治が宗教に介入することに潔癖でない、というより、初めから政治的野心を隠さない、そういう宗教は、何かあれば容易にカルトに変貌すると思う。し、現にした。

 鎌倉時代は、戦後の日本に様々な思想が生まれたように、さまざまな仏教の宗派が生まれたが、法然親鸞道元栄西明恵とくらべると、日蓮という人は、その反動といった存在に、私には見える。

 まあ、ここに書いていることは、『〈民主〉と〈愛国〉 ナショナリズムと公共性』の感想の、そのまた余白みたいなことにすぎなくて、小熊英二の書き方は、私がここに書いている書き方より、はるかにフェアだが、ただ、もし、これからまた政治の季節が始まるとして、日蓮主義的な迷蒙が政治に介入してくるのは嫌だなと思う。佐藤優が、最近書いていることを読んでいると、創価学会が政治的に利用できると考えているようなんだが、アブナイ気がする。