『異なり記念日』

異なり記念日 (シリーズ ケアをひらく)

異なり記念日 (シリーズ ケアをひらく)

 斎藤陽道っていう写真家の存在はワタリウム美術館の個展で初めて知ったんだったが、なんて音楽的なんだろうっていう不思議な感覚の写真だった。

 絵では、ラウル・デュフィとか、パウル・クレーなんかに音楽を感じることがあるが、写真がこんなに音楽的なのは、初めての体験だった。

 この『異なり記念日』は、彼(ろう者だが両親が聴者、なので母語が日本語で、日本手話が第二言語)と、彼の奥さん(ろう者でご両親ともろう者、なので母語が日本手話で第二言語が日本語)との間に生まれた息子さん(両親がろう者だが彼は聴者、言語はまだどうなるかわからない)が3歳になるまでのクロニクル。

 これは、言葉を考えるためにもすごく貴重な本だと思う。奥さんが「いつき」という息子さんの名前を使って、即興で物語を作るところなんて、手話が全然わからなくても、眼に浮かぶようなのだ。こういうあたりにこの人の写真が音楽的に感じられる秘密がある気がする。

 それから、奥さんが染物のワークショップの講師の1人として、幼稚園だったかに行った時、自閉症の子と自然にコミュニケーションが取れてしまうとことか、著者が月夜にお子さんをおんぶして散歩しながら、声を出したくなって、「いつき」という名前が「いい月」に通じているのに気づくととことか、刺激的なのである。

 わたくし、ここのところ、ジャック・デリダの『声と現象』という「フッサール現象学における記号の問題入門」という副題のついた、おっそろしく難解な本を、文庫で持ち歩いて読んでいる。一回読んだだけではわたしには難しいので、何度も読み直すことになっているだけだが、たまたまなんだけど、『異なり記念日』とテーマが似ていたりする。たとえば、斎藤陽道さんが「ことば」と「言葉」に分けて使っていることが、フッサールでは、「表現」と「指標」に当たったりすると思う。

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

 しかし、一方では、フッサールは身ぶりを言葉に認めようとしない。フッサールはたぶん手話を研究すべきだった。

 斎藤陽道さんは、補聴器をつけるとかすかに聞くことができたため、16歳まで手話を学ばなかった。そのことで、のちに、手話を習い覚える以前のことを回想することが困難になった。「思い出」という言葉の意味がわからない感じが長くあったそうだ。

 これなんか、「現前化」がなかったので「再現前化」も起こらないと言えそうだが、斎藤陽道さんによると、「ない」のではなく、蜂蜜が白く固まって瓶の蓋が開かなくなってる感覚に近いそうなのだ。現に、黒電話や公衆電話をめぐる逸話なんかをiPhoneを使うようになって思い出している。

 そういう斎藤さんの話を聞いていると、すべての言葉は「再現前化」であって、「生き生きとした今」には、そうした言葉も含まれてはいるけれど、その他のすべても含まれているのが当然なように思える。

 「異なり記念日」というタイトルの意味は、近所のスーパーで買い物をしている時、息子のいつきさんが手話で何かがあると伝えようとする。しかし、著者にはしばらく何があるかわからない。いつきさんは店内に「音楽がある」と伝えようとしていたのだ。

 そんな風に、人が少しずつ異なることに気づいていけるのは感動的だと思う。異なりを見つけられるからこそ自己と他者が存在している意味に気づける。著者が毎日の天気をいつきさんに手話で語りかけるようにしたその日から、1日1日が違うことに気づく。毎日が同じことの繰り返しでないことに気づいて愕然とする。

 すべての人が違って、すべての日々が違うことに気づかない生き方はひどく惨めなのだ。