『声めぐり』

声めぐり

声めぐり

 こないだこの人の『異なり記念日』を読んで、同時に刊行されているこの本があると知ったので、これは読んでみなくてはと。

 前も書いた通り、ジャック・デリダフッサール現象学について書いた『声と現象』を読みつつ、この人の本を読み、また写真を見ていると、すごく刺激的で興味深い。
 
 『声と現象』には「・・・声がなければ、どんな意識も可能ではないのだ。声は、普遍性の形式において、意識(共通のcon - 認識science)として、自己のもとにある存在である。声は、意識である。」とある。
 
 しかし、とても、興味深いのだけれど、斎藤陽道さんは、補聴器をつけて聴者として暮らそうとした中学までの記憶がほとんどすっかり失われている。にもかかわらず、ろう学校に進み手話を憶えて「見違えるほど饒舌に」なり、徐々に過去と再会し始める。

 こういう話を聴くと、「声とは何か」と考えてしまう。聴者が「声」と呼んでいるものにこだわっている時、この人はほとんど意識を失っていたように見える。ところが、聴者が「声」と呼んでいるものと訣別する事で、ようやく意識を取り戻したように見える。

 斎藤陽道さんは、たぶん、今いちばん注目されている新進のカメラマンだから、写真の原体験についての話も面白い。手話を学ぶまでは、自身の写真を見るのさえ苦痛だったそうだ。それが自分だということさまったく思い出せないから。親に、これが自分だと見せられる写真にまったく見覚えがなければ、気色悪いに違いない。一時期はドッペルゲンガーだと本気で思っていたそうだ。

 声について意識的でいないで済む聴者は、「思い出す」ということについても、突き詰めて意識的であることは少ないと思う。中学までの自分についての記憶がごっそり抜け落ちている。そして、自分の写真を見てもそれがドッペルゲンガーとしか思えない。そういう人が、手話という「声」を獲得してから取り組み始めた(実際には中学の頃に「写るんです」で撮り始めていたそうだが)写真は、やっぱり厚みが違う。

 そういうサイドストーリーがそう見せるのかと疑ってみてもよいと思うが、でも、やっぱり違う。

 19世紀のヨーロッパで、絵画を写真的な写実から引きはがしたのはジャポニズムだった。中国の絵画も、西洋の人が伝統的に慣れ親しんできた絵画とは、技法も発想もまったく違うものだったには違いないが、たぶん、そうした中国の絵画と浮世絵の大きな違いは、その「親密さ」にあったのだろう。浮世絵に描かれている、江戸という大都市に生きる庶民の日常、自分たちと同じような都市生活者が描かれていたからこそ、浮世絵は、西洋絵画に大きな影響を及ぼした。浮世絵は「絵画=写実」という迷信を捨てさせた。

 そうして、絵画が写実を離れたことで、もうひとつのpictureである写真もまた絵画を離れた。ピクトリアリズム(絵画主義)の写真くらい退屈な写真はない。斎藤陽道さんの写真には、いわゆる「日の丸構図」が多いそうだ。わたしらシロウトは、写真を撮る時、つい日の丸構図を避けようとしてしまうが、その発想は、ピクトリアリズムの名残にすぎないだろうと思う。

 写真は絵じゃない。斎藤陽道さんは「写真」という言葉より「光画」という古い言葉の方がむしろしっくりくるのではないかと書いていた。

 それでまた、ジャック・デリダの『声と現象』なんだけれど、断章取義の誹りを振り切ってまた引用すると、
「時間化は、根源的でしかありえないような隠喩の根元である。『時間』という語自体が、形而上学の歴史の中でつねにそう理解されてきたように、一つの隠喩であって、この自己-触発の「運動」を指示していると同時に隠蔽しているのである。」
「・・・『世界』は、時間化の運動によって根源的にもたらされるのである。・・・時間化は現象学的還元の力そのものであると同時にその限界そのものである。〈自分が-語るのを-聞くこと〉は、自己の上に閉ざされた内部の内面性ではない。それは、内部において還元不可能に開かれていることであり、話す言葉の中の目と世界である。現象学的還元とは、一つの光景なのである。

 言うまでもなく、何のことか分からないのであるが、写真という光景はどんな光景なのかと考えてしまう。