『きみの鳥はうたえる』

きみの鳥はうたえる (河出文庫)

きみの鳥はうたえる (河出文庫)

 佐藤泰志の小説は、時々思い出したかのように映画化される。呉美保監督の『そこのみにて光り輝く』はよかった。主演の綾野剛もよかったし、池脇千鶴もよかったが、何と言っても、菅田将暉が素晴らしかった。あの自転車の漕ぎ方は今思い出しても唸らされる気がする。

 今回、三宅唱監督が映画化したのは佐藤泰志が1981年に書いた文壇デビュー作で芥川賞候補にもなった『きみの鳥はうたえる』。だが、原作をかなりいじっているのは、主人公がLINEでやりとりしているのを見てもわかる。それで、「あれ?これ、かなりやってるな」と思ってkindleで原作を読んでみた。

 まず、舞台が1980年代の東京から現代の函館になっているのが、意外だった。佐藤泰志だから、原作も函館が舞台かと思っていた。
 私が知っている頃の函館はきれいな街だった。今もそうかもしれないけど、短い夏が終わりかけた頃の朝の空気とか。でも、時代を現代に置き換えるなら、舞台は東京より函館の方がしっくりくるかも。1980年代の東京は、今の東京には置き換えられない輝きを放っていたのではないかと思った。輝きと言って伝わらないなら、空気の軽さと言い換えたほうがいいかもしれない。そうした空気の軽さを背景に、村上春樹の初期の小説や、佐藤泰志のこの小説も書かれている気がする。

 映画と原作の違いとしては、しかし、舞台となる街の違いなんて、むしろ、小さいくらいだ。その違いはかえって原作の雰囲気を失わないための工夫であるかもしれない。小説を読んだ人は分かっていると思うが、物語の着地点が大きく違う。物語の発端も、出来事も、たぶん、登場人物の性格でさえもほぼ小説どおりなんだが、映画も小説と発射地点は同じなのに着弾点が違う。ラストが違うとは言えない。なぜなら、映画は小説の最も劇的なラストに至る前で終わってしまうのだ。

 もちろん、このユニークな三角関係は、佐藤泰志の発明であり、その功績は動かせないのだけれど、しかし、この小説に登場する若者たちの解像度を上げていくと、確かに、小説のラストにならなくてもいいかもしれない。このユニークな三角関係の意味が、映画として立ち上がってくる。結果として、1980年代の青春小説が、現代の青春映画に変わっている。もちろん、三宅唱監督の力量であるけれど、四半世紀の熟成というべきかもしれない。小説が今の時代に蘇ったら確かにこうかもしれない。今なら、こうでなければいけない説得力があった。

「・・・そんなふうに 、親しくもない女を待つのは 、はじめての体験だった 。勘ちがいかもしれない 、と思ったので 、数を数えて一二〇になったら消えようと考えた 。こいつは賭けだ 、といいきかせた 。」
というセリフも
「静雄が母親を見舞って帰ってくれば 、今度は僕は 、あいつをとおしてもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない 。すると 、僕は率直な気持のいい 、空気のような男になれそうな気がした 。」
というセリフもほぼこのまま映画で使われている。ただし、ナレーションとして使われている。この二つのナレーションを映画がつないでいると言ってもいい。この映画の主人公は、柄本佑の演じる「僕」なので、最初、一人称で始まった映画が最後にまた一人称に戻る、その感じが鮮やかで面白いと思った。

 ところで、柄本佑の演じる「僕」は、石橋静河の「佐知子」に借りた100円ライターをポケットに入れたまま帰ってしまう。このタイプは、ときどきいると思う。私はタバコを吸わないが、キャンプに行くと火が必要なので、ツーリングに行くときはいつも100円ライターを携帯していた。
 その100円ライターを貸すと返さない人がたまにいた。だからといって、悪くもよくも思わないし、要るときに「返して」といえば返ってくるが、私自身に置き換えると、用が済んだら無意識に返してしまうと思うので、それが不思議ではあった。
 でも、この映画を見て、あれは長い年月で身についてしまったポーズであり、長年やり続けたために、もはや、無意識になってしまった自意識なんだって分かってしまった。本人は自意識とだけ向き合っている。他人からは「何を考えているかわからない」。この人物造形は新しいと思う。
 映画が小説と違う点のもうひとつは、本屋の店長がカッコいい大人に描かれている。前に書いた坂本龍一の言葉ではないが、「大人はすべて敵」ではないにしても、80年代にはまだ「カッコいい大人」にリアリティーはなかった。萩原聖人が演じている。こんどプロの雀士としてデビューするそうだ。
 この人見てていつも思い出すが、木村拓哉がテレビで「萩原聖人がキライ」と公言したことがあった。似てると思うんだ、このふたり、マジメすぎる感じが。