ヴラマンクはパリとアートに背を向けたか

 もう先月の、しかももう一ヶ月近く前の話なんだけれど、静岡市美術館にヴラマンク の展覧会を観に行った。
 ヴラマンクカタログ・レゾネを編纂した、ポール・ヴァレリー美術館の館長、マイテ・ヴァリス=ブレッドてふ人が監修したというので、静岡まで足を延ばした。
 好きキライという単純なことから言うと、私はヴラマンク が大好きだ。これは、ひとつには佐伯祐三が私淑したエピソードから来る印象なのかなと思っていた頃もある。でも、やはり、ヴラマンク の絵そのものが好きというのが一番正しいみたいで、それで、よく考えてみると、日本人が一番影響を受けた油彩画はフォーヴだったんじゃないかと仮に思ってみたりしている。たとえば、梅原龍三郎なんて、ルノワールとの親交があったため、うっかりルノワールと結び付がちだが、梅原龍三郎ルノワールはどこも似ていない。梅原龍三郎はむしろフォーヴに近いと思う。
 フォーヴの画家と言って、すぐ頭に浮かぶのは、つまり、マティスヴラマンクだと思う。他にも、ヴラマンクとアトリエを共有していたアンドレ・ドランとか、マティスとともにギュスターヴ・モローに師事したアルベール・マルケ、ジョルジュ・ルオーがいるが、個人的に、アンドレ・ドランはあまり知らない。それは多分、第二次大戦中にヴィシー政権と親密だったそうで、戦後、ナチスの協力者と目されてしまったため、作品をあまり目にしないんだと思う。
 アルベール・マルケは、私はこの人もまた大好きな画家で、特に、海の風景は絶品だと思う。でも、フォーヴというほど荒々しい感じはしない。ルオーにかんしては、あれはルオーの発明であって、フォーヴ云々は関係ないように思う。そう言い出すと、そもそもフォーヴとは評論家が彼らをそう総称しただけで、彼らが自称したわけではなく、フォーヴという言葉に、彼らは何の責任も持たない。
 ラウル・デュフィアンリ・マティスヴラマンク を比べると、はっきり分かる違いは、線描についての意識の違い。ヴラマンクは、デュフィマティスのように、音楽的に歌う線を持たない。これは、音楽家の両親を持ち、本人も画家として売れるまでヴァイオリンの演奏家、あるいはその教師を生業としていたことを考えると不思議な気がする。
 ヴラマンク自身が理想としていた画家はゴッホだったそうだ。1901年に初めて開催されたゴッホの個展を訪ねた日のことを「喜びと絶望で泣きたくなった」とのちに回想している。
 ゴッホも、そのヒマワリや糸杉を観れば明らかなように、線よりも筆触で表現する画家だった。そして、ゴッホもまたヴラマンクと同じく日本人に人気の画家である。
 まあ、ゴッホを好きなのは日本人だけではないし、ヴラマンクについてももちろんそうだが、ルーベンスレンブラントではなく、ゴッホヴラマンクが日本で愛される理由は、日本人の「没骨法好み」が背景にある気がする。日本での水墨画の最盛期とされる室町時代、圧倒的に牧谿を支持した日本人の美意識が、油彩画をめぐっても、また繰り返されているように見える。私たちは、対象を正確に描写することではなく、筆触の確かさを絵に求めているのではないか。ゴッホのうねるような筆触は、私たちの縄文人のDNAを刺激しているのかもしれない。
 
 先に挙げた画家たちと違い、ヴラマンクは正式に絵画を学んでいない。佐伯祐三を「アカデミズム」と罵倒できる権利がヴラマンクにはあった。
 「私のコバルトとヴァーミリオンで国立美術学校を焼き尽くしてしまいたいと考えていた。私より以前に描かれた一切の絵画によらず、私自身の感覚を表現したかったのだ」
とは、10年前、新宿の東郷青児記念美術館であったヴラマンクの回顧展で紹介されていたヴラマンクの言葉。今回の図録にも、ゴッホに興奮したヴラマンクの言葉をマティスが憶えていたそうだ。
「ほら、純粋なコバルトやヴァーミリオン、純粋なヴェロネーゼの色で描かなければならないんだよ」。
 ヴラマンクは、おそらく油絵の具そのものを愛したんだと思う。初めて油絵の具に触れたときの喜びを生涯もちつづけたとしたら、ヴラマンクのような絵になると思う。
 ヴラマンクは、ごく若い頃は、自転車のレースで生計を立てていた。賞金で週に300~400フランは稼いでいたという。チフスで選手生活を断念したそうだが、後に、もしアンドレ・ドランと出会わなければ、ツール・ド・フランスに出場していただろうと語っている。
 その後、モーターバイク、自動車と、まるで20世紀末の若者のように、モータリゼーションに手を染めている。
 佐伯祐三ヴラマンクに引き合わせた里見勝蔵の証言では、彼をインディアン社製のバイクの後ろに乗せて、120キロの速度で田舎道を疾走していたそうだ。

 ヴラマンクの絵のいくつかは、運転席からの景色だと思われる。

 若い頃の一時期は、セザンヌの影響で、構成主義的な、キュビズムととればそうとれる絵も描いていたが、すぐに辞めた。キュビズムはやはり「国立美術学校を焼き尽くしてしまいたい」という願望にはそぐわないように思う。アートに背を向けて絵に回帰した、そういう最初の人だったかもしれない。