『東西文学論・日本の現代文学』

 江藤淳を読んだ後、吉田健一を読むと、扉をあけて明るい戸外へ出た感じがする。桂枝雀桂米朝の落語の相違にたとえたくなる。桂枝雀って人は、最後は自殺するまで打ち込んだ人だし、師匠の米朝も「いつかは自分を超える存在になると思っていた」と、その存在を認めていたのだが、枝雀落語のuniquityと米朝落語のuniversalityと、そんな風に単純にカテゴライズして済ませるわけにはいかないけれど、とにかく、それによく似た感じを江藤淳吉田健一の違いには感じる。
 それは、夏目漱石を論じている部分をみるとわかりやすい。夏目漱石は、ご存知の通り、朝日新聞の社員だった。今、朝日新聞がクオリティー・ペーパーと、なんとなく評価されているとすれば、その根拠の大きな部分は、夏目漱石がその紙面で小説を書いていたからだ。もしかしたら、それだけかもしれない。
 夏目漱石は、日本の教養主義のアイコンだった。その前提は、問題にするしないはともかく、江藤淳吉本隆明も無意識に受け入れていると思う。しかし、吉田健一は、そこからもう違う。『明暗』『道草』、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』は傑作だが『こころ』は他愛もないという。
 この文庫に収録されている「東西文学論」の、明治以来の文学者の留学を比較したところはすごく面白い。前々からどうにも腑に落ちなかったのは、夏目漱石って官費でイギリスに留学したのに、いわゆるオクスブリッジどころか、どんな大学にも通ってない。自室に引きこもっていた。どんな官費留学だよ?、と思っていたのが、この本でわかったのは、鷗外の時代と政府の対応がずいぶん違い、漱石には、金を渡して放り出しただけだった。現地に着いてからも、指導を受ける先輩もいなかった。
 また、日本社会の留学をめぐる印象がずいぶん違った。漱石自身も行きたいと思っていなかった。どうも、金持ちの道楽息子が箔をつけるために行くものっていう風潮になり始めた頃だったみたい。漱石がイギリスで出会った日本人もそうだったみたいで、もともと行きたくなかった留学だし、カネは足りないしってわけで、そこは江戸っ子の意地っ張りを大いに発揮して閉じこもっていたみたい。
 しかし、オクスフォードに留学経験のある吉田健一に言わせると、費用が足りなくても、官費の留学生であれば、費用が足りないなりに対応してくれたはずだという。それは、東洋の一留学生の立場の漱石には分かりようもないが、ただ、もともと行きたくなかったのだから、道も拓けない。
 これに対して、鷗外のドイツ留学は対照的。一歩、船を降りたその日から、「自分のドイツ語で全然不自由しない」みたいなことを日記に記している。先輩たちの知遇を得て、社交界にも出入りしているし、ミュンヘンでは、新聞紙上でナウマンと論争している。
 吉田健一は、近代の日本文学が成した最大の仕事は、日本語を完成したことで、その最大の功労者は森鴎外であり、鷗外が江戸時代の漢籍の教養を持ちながら、同時に、ほとんど欧州の人と同じ感覚で、欧州の文学を体験したことが大きいんだと言っている。
 江藤淳が、「作家は行動する」で、作家の文体を微に入り細を穿ち分析しているが、そういう江藤淳の文体も含めて、日本語そのものが森鷗外以前には完成していなかった。その吉田健一の分析は正しいと思う。江藤淳の「戦後の言語空間」っていう問題意識は、フォーカスを絞りすぎているように思う。
 「東西文学論」を読んでいて、痛快なのは、「小説不要論」を説いているところだ。生活に必要ないとかじゃなく、そもそも文学にとって小説は取るに足りない。
 言われてみれば、たしかにその通り。小説なんてせいぜい18世紀の流行にすぎない。それは、印刷や出版の事情に無関係ではないだろう。だとしたら、21世紀のネット社会を背景にそれが下火になっても驚かなくてよい。出版社は困るのだろう。しかし、困るからといって、右翼のヘイトに躊躇なく紙面を提供するのであれば潰れてもらった方がいい。小説なんてなくていいというラディカルさは、江藤淳の持ち得なかったラディカルさだと思う。