マルセル・デュシャンと日本美術


 マルセル・デュシャンの便器を観に行った。結局、ガラスケースに飾られて、世界の美術館を巡回しているではないかと、なんとなくほくそ笑む気分になる。時空を超えて壮大なプラクティカル・ジョークだ。
 この便器が200年、300年後にどうなっているか想像してみた。来歴が忘れられ、何のことかわからなくなっているか?、そんなことはないだろう。むしろ、この白磁の瓶は、ますます便器らしくなくなるだろう。これと同じ便器が美術館のトイレにあったら、出かかった小便も引っ込むに違いない。
 しかし、こういうことは言えそうに思えた。コンセプトはどんどんかすんでいく。今でさえ、「お!、デュシャンの便器か、写真撮ったれ」と思うだけである。建物にたとえれば、設計図は残るとしても、その建物のコンセプトは残らない、どころか、真っ先に消えて失くなる。あたりまえじゃないだろうか?。
 ただ、こう反論できる。残っているのは「コンセプト」であって「もの」ではない、なぜなら、単なる「もの」ではなく「建物」なのは、そこに建物というコンセプトがあるからだと。
 それに対してはこう反論できる。その「もの」を建物たらしめているコンセプトは、あくまで、その時、その「もの」を建物として使っている人のコンセプトである。当初のコンセプトがコンセプトとして存在し続けるなどということはあり得ない。あるコンセプトがモノに結実し、そのものがまた新たなコンセプトを喚起するからこそコミュニケーションが成立する。コンセプトが形にならず、そのまま提示されたら、これほど退屈なことはない。コンセプトがそのまま伝わるなんてことがありえないからこそ、媒体としてのアートが存在するんじゃないだろうか。
 この展覧会は、「マルセル・デュシャンと日本美術」ということで、「レディメイド」の例として千利休の花入が展示されていた。

 が、しかし、もっとはっきりと、マルセル・デュシャンの便器に似たレディメイドといえば、

そりゃ何と言っても井戸の茶碗である。これは、常設展の方に展示されていた大井戸茶碗の有楽井戸であるが、マルセル・デュシャンがただの便器を《泉》と名付けたセンスと、朝鮮の雑器を「井戸」と名付けたセンスは、意外なほど似ている。
 ただ、《泉》は、美術展や美術館という場があってこそアートとなりえたのだが、井戸の茶碗は、茶室や茶会という場がその美を成立させているわけではない。茶人たちは、この朝鮮の雑器に美を観たのである。マルセル・デュシャンはこの便器に美を観たのだろうか?。
 では、コンセプチュアル・アートと言いつつ、ここにどんなコンセプトがあったのか?。実際には、コンセプトすらなかった。マルセル・デュシャン自身がコンセプトを語ったのだろうか?。《泉》の美しさは、工業製品の美しさなのである。
 それがレディメイドってことなんだし。たとえば、ジョセフ・コーネルの箱は、それ自体が美しい。《泉》は、レディメイド(既製品)であるには違いないが、コンセプチュアル・アートとは呼べないと思う。
 ところで、複製芸術にこと寄せて、俵屋宗達の龍の絵と、狩野探幽の龍の絵か並べておいてあった。複製芸術かどうかはともかく、俵屋宗達

これが、狩野探幽のこれ

より圧倒的に優っている。探幽のは、リアルに描こうとする作為から大胆さが損なわれている。龍の絵だから龍を描かなきゃ、と思っているように見える。むかし、加藤周一宗達の雷神の腕が醜いと言ったことがあるが、たぶん、ミケランジェロあたりと比べているのだと思う。雷神図をダイレクトに観ていない。
 評論家が「コンセプチュアル・アート」ということを言い出して、「じゃあ、僕コンセプチュアル・アートします」って作った作品は、おしなべてつまらない。コンセプチュアル・アートと言いつつ、そこにあるコンセプトは、コンセプチュアル・アートというコンセプトだけだから。コンセプトだけなら、メモででも伝えてもらえば、わざわざ観なくてもわかるのに、なぜ作品にしているのだろうか。
 それと、

こういうの展示しても警察が騒がなくなったのは、いくぶんかましになったことだと思う。こういうことをわいせつだと騒ぐ方が猥褻なのである。