フィリップス・コレクション展

 ワシントンのフィリップス・コレクションが今年で創立100年だそうで、三菱一号館美術館としては、ジャルダンやルドンの展覧会などで、作品を借用してきた縁もあり、館長の高橋明也さんの個人的な関係もあるのだろうけれど、今回、フィリップス・コレクションそのものをテーマにした展覧会を企画したそうだ。
 コレクターっていう人たちは、絵にひたすらカネを使う人たちのことで、たまたま絵を売るとしたら、また別の絵を手に入れるためにそうするので、カネを得るためではない。
 ZOZOの前澤さんが、月旅行に行くことが話題になった時に、「めぐまれない人たちのために使ったら?」みたいな批判があったと聞いたけれど、なにかしらボヤけた印象の批判だと思った。お金があれば、めぐまれない人が救えるというのは、怠け者の妄想だと思う。お金の使い方としては、月旅行はともかくとして、名画をコレクションすることは、たぶん最適解に近いのだろう。カネとは何かは、実のところよくわからないが、とにかく、そういうカネがこの名画の向こうに消えていった。
 たとえば、ドガとか、ルドンとか、エルンストとか、画家の生涯に焦点を当てた展覧会も面白いけれど、コレクターに注目してキュレーションしても、同じように見応えのある展覧会ができるのは、この人が良いコレクターであるということと、これらが名画であるということ以上の何かである。
 たとえば、キュビズムの絵について、ピカソではなく、ブラックの絵の方が多いそうで、「ブラック・ユニット」と、フィリップス氏が名づけていた作品群があるそうだ。

ブラックのこんな絵は初めて観た。私も、キュビズムの画家としては、ピカソよりブラックの方が好きだ。ピカソキュビズムは、ちょっとやってみただけって感じがするのに対して、ブラックはキュビズムに魅了されたようにみえる。今年は、パナソニックの汐留ミュージアムで、ブラックの絶筆(と言っていいのかどうか)メタモルフォーシスという作品群を観たが、これは素晴らしかった。
 それから、オノレ・ドーミエの《蜂起》や、シャイム・スーティンの《嵐の後の下校》を熱烈に支持しているのは、ダンカン・フィリップスの生きた時代を感じさせる。大富豪も「私たちアメリカ人」という帰属意識を持っていた時代。それどころか、「私たち民主主義者」という意識が、信じられた時代であり、その時代のアメリカ人の方が今より幸せだったはずだと私は思う。
 そして、ここでもまたボナールの名品に出会うことになる。


 ボナールを巡る毀誉褒貶の激しさがわたしには面白い。突き詰めれば好き嫌いにすぎないので、論争にはなっていないようだが、好きな人は熱烈に好きなようで、しかも、好きな人の気持ちもキライな人の気持ちもなんとなくわかる。このダンカン・フィリップスに関して言えば、ピカソよりブラックが好きなら、そりゃボナールは好きだろう。
 こういう個人コレクションの面白いところは、有名な画家の絵でも、普段あまり観ないような絵が見られる。さっきのブラックもそうだが、

このコンスタブル。コンスタブルは、ターナーと並び称された英国の風景画家だが、いままでピンとくる絵に出会ったことがなかったが、この絵に輝いている白の色は素晴らしいと思う。
 それから、コローは

かの「銀灰色」ではない絵をこういうコレクションの中で観るのは新鮮だ。
 そのほかにも

デュフィ

マティスなど。ここに作品リストがあります。まさに名画ばかりで、観る人によって、まったく違う感想になるだろう。
 このブログを検索してみると、フィリップス・コレクションは、2011年に、アメリカの現代絵画の展覧会を観た。エドワード・ホッパーなど「アシュカン・スクール」と言われる人たちの絵を観た。あれも素晴らしかった。オスカー・ココシュカとフランシス・ピカビアの絵はいつかまとめて観てみたい。