断章ふたつ

 
 加藤典洋の『アメリカの影』を読んでたら、こんな言説にぶつかりました。
 「一二世紀において 、パックスとは 、領主間で戦争が行われていないということを意味するものではなかった 。 ( … … )平和とは 、戦争がないことではなく 、戦争のもたらす暴力から貧しい者および弱い者がサブシステンス (民衆が自分たちに特有の文化を維持していくのに必要な最低限の物質的 ・精神的基盤 )を得るための手段を保護することであった 。平和とは 、農民や修道士を守ることであった 。平和とは 、領主間でいかに血なまぐさい戦争が行われている最中であっても 、牛や栽培中の穀物は保護されているということであった 。また平和とは 、非常用の穀物倉庫や収穫の時期が保護されているということであった 。 ( … … )したがって 、対立関係にある騎士同士が戦争をしていようといまいと 、その土地が平和であるということとは無縁のことであった 。このサブシステンスの保護を第一目的とする平和は 、ルネサンスとともに失われてしまった 。」
と、イバン・イリッチが書いているそうです。
(「暴力としての開発」大西順 訳)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

 それから、江藤淳の「荷風散策 紅茶のあとさき」を読んでいたら、断腸亭日乗昭和17年三月十九日の記事にこんなのがあるそうです。
「 噂のききがき
上野東照宮五重塔のほとりの休茶屋にては近年茶汲の女に花見の時節赤襷赤前垂をしめさせゐたり。然るにこの程警察署にて右赤前垂は目立つ故緑また桃色にすべき由申渡せしに茶屋のかみさん承知せず、警察署に至り何故赤き色御禁止になりしや。日の丸の旗も赤いでは御在ませんか。赤前垂は派手なれば桜時にはふさはしきものなり。若しはでなものがいけないと云はるるはればお上の御威光にて春も来ず、花も咲かせぬやうになさいませとしやべり立てられ、役人も返す言葉なく遂に例年通赤前垂を許すことになりしと云」